2015年1月11日日曜日

Je suis Charlie!

「えらいことになってるなあ、フランス。ぎょうさん死んだはるやん。気の毒に」
新聞を見ながら母が言った。
「……うん。そやなあ……」
返す言葉が見つからず、相槌打つくらいしか、できなかった私。

母が新聞の記事について自ら話すことは、とても珍しい。
載っているいろいろなことは現在進行形で世の中に起こっていることなのだが、年をとるにしたがって、関心の幅が狭くなっているのがとてもよくわかる。話題に乏しくなること甚だしい。こちらから、騒がれている事件などを話題にすると、記事を読んだ覚えのある件については話に乗ってくる。でも、記憶に引っかかっていなければ、どんな大事件であっても「ふうん」「ほんま」「へえ、そうなんか」みたいな返事が関の山である。
だから、シャルリエブド社襲撃テロについて自分のほうから「えらいこっちゃな」と言ったことは、母の言を耳にした私にとっても大きな出来事だった。
新聞にフランスの文字が大きく掲載されることはとても少ない。国際面に小さく載ることはあるが、母はまったく目を通さない。たとえば京都にフランスの要人が訪問中だったり芸術家が滞在中だったりすると、文化面や社会面に載ることがある。そういう記事には目は通しているだろうけれど、あまり関心もないので記憶に残らない。「日仏の架け橋」とか使い古された枕詞がついていてもピンときてないに違いない。暮れにとある映画祭に行ってきたのだが、出かける前に、「フランスの映画監督も来たはるねん」と言っておいたんだが、翌朝の新聞に、映画祭でのパトリス・ルコント監督トークショーの様子が掲載されているのに全然反応しなかった(笑)。ま、仕方ないとは思っていたけど。
今回のテロは、地方紙であっても大きく扱わないでどうする、というほどの大事件だから、何面にもわたってでかでかと、連日掲載されている。
母にとっては、フランスはとても遠い国だけれども自分の娘が会社勤めをして貯めた貯金をはたいて留学した国であり、帰国後は友達と称するさまざまな不思議な容貌をした男女が入れ替わり立ち替わり家に出入りするようになるが彼らと娘の話すのがそのフランスという国の言葉である、という理由で、どの諸外国に比べてもいちばん近しい国なのだ。だからさすがにこれほどでかでかと載ると、「あんた、フランスえらいことになってるやん」と言わずにはおれなかったのだ。

ただ、私は1月8日の真夜中、すなわちフランス時間の夕方だが、流れてくるフランスメディアのツイートによって、とんでもないことが起こったことは知っていた。各社の短いツイートにはいずれも「CharlieHebdo」の文字があり、「12人」「殺された」と記されていた。よくわからないまま、慌てた。何? 何が起きている? 凄まじいスピードでツイートが流れてくる。やがて射殺された編集長や風刺画家たちの名前や写真つきでツイートされる。やがて現場の写真も載る。各社自社サイトにリンクを張り、その時点でわかっていることを次々に記事にしている。残念ながら私の理解力は追いつけない。とにかく銃撃事件があったみたいだ。パリ在住の日本人のツイートも流れてくる。いくつかの記事を経てやっと、「あの」風刺のきつい週刊紙「CharlieHebdo」のスタッフがほぼ皆殺しにされたことがわかった。
翌朝の新聞記事は、一面に載っていたが、小さかった。夕刊になってようやく詳細が載った。さらに次の日、9日になって扱いがぐっと大きくなる。
冒頭の母のつぶやきは、昨日、つまり10日の朝だった。ようやくただならぬ事態だということに、母も気づいてくれたのだ。ありがとう。

ウエブのほうは当然ずっと早いので、8日早朝にはポータルサイトに第一報が載っていた。しかしその頃には、夜中になったパリでは「Je suis Charlie!」「Nous sommes Charlie!」の合い言葉を誰もが口々に叫んでいた。フランスのメディアはいずれも自社ロゴアイコンに喪章をつけてツイートを流していた。夜が明けると公施設は半旗を掲げ、あちこちのモニュメンタルな建物には「Paris est Charlie」の横断幕や、プロジェクションマッピングが施されていた。

そんなわけで、母がフランスの大事件に言及してくれたとき、私はすでに大きな悲しみと怒りに体が震えこみ上げる悔し涙を抑えられない、そのいっぽうで事件の概要はなんとか詳しく把握した、という大きな峠を越えたところだったので、彼女の言葉にむしろ拍子抜けしたのであった。ごめんよ。

ただその時点では、パリの友人たちからメールの返事が来ていなかったこともあって、心の奥に気がかりを残したままで、気分は晴れていなかった。だから、まさに、たしかに「えらいことになっている」から心配でしょうがなかったのだが。
(その後返事が来て、ひとまず安堵)
母に、このテロの背景、原因、目的、結果の検証まで説明するのはたぶんとても骨が折れる。そのわりにたぶんひとつも理解してもらえない。だから、相槌打つしかなかった。
そやなあ。ほんまに、えらいことになってる……。


レピュブリック広場からのラジオ中継を聴きながら、今書いている。
「Charlie! Charlie!」
「Liberté! Liberté!」
大衆のシュプレヒコールが聞こえてくる。La Marseillaise(フランス国歌)を誰ともなく合唱する。群衆は踊りながら、Je suis Charlie! と歌うように叫んでいる。爆竹のような音も聞こえる。PCブラウザに目をやると、サッカーW杯で優勝したときより多い人出だ、というツイートが流れる。


シャルリエブド社の、犠牲になった編集者たちはみな働き盛りの30代、40代、50代の人々だった。家族があっただろう。親も健在だっただろう。自分の体を扱うのが精一杯の母を見ていると、親より先に死ぬようなことだけは避けよう、と思わずにいられない。テロリストに明確に標的にされて殺される、といった死にかたを自分の息子や娘がするなんて、そんな人生など予定していなかった。遺族は憤り、やり場のない怒りと深い悲しみに覆われていることだろう。事件をきっかけに、国民の連帯が強まり、自由への希求が高まるのは結構なことだが、かけがえのない命を失った者たちの傷は癒えることはない。被害者遺族の言葉にならない悲しみは、いつだって置き去りだ。
17人の犠牲者の遺族、とくに、年老いたかたがたの心の安寧を願って止まない。

2014年12月30日火曜日

L'état sérieux? (4)


10月18日土曜日。
朝、ガーゼを外して驚いた。明らかに薬が効いた様子だった。悪玉菌目下活動中といわんばかりの患部の生々しさが少し和らいだように見えた。悪化が止まったのだ。薬が効く。治る見込みがあるということだ。

前日皮膚科で尋ねた。
「なんでこんなものができてしまったんでしょうか」
二日間ほど熱のため臥せっていたとつけ加えた。
「ああ、たぶんそれですね。お年寄りは、2時間ほど動かず寝ているだけで床ずれができます。床ずれのできる部位はお尻に限りません」
お尻もふくらはぎも、わずかな間「寝たまま」だったことに起因する床ずれなのだ。業界用語では褥瘡というが、褥瘡ができたらいちばん恐れるべきは感染である。が、残念ながら現状は感染が疑われる。
「ふくらはぎのほうの、この白いのはどういう状態なんですか」
最初できていた血瘤が破裂したあと、生々しい患部が見えたが、まもなくその大半が白い組織で覆われた。
「皮膚や筋肉が、死んでるんです」
「死んでる。もう生き返らないんですか」
「生き返りません。この部分は切除するしかないです。ここを切除して、下から新しい細胞が皮膚を形成するように促すということをしていくと思いますが……お母さまは糖尿病がおありなのでなかなか……」
悪化のスピードはとてつもなく早く、回復のスピードはとてつもなく遅い。糖尿病のリスクはあらゆるところに潜む。

デイサービスのスタッフが言っていた「ホーカシキエン」も調べてみた。「ホーカシキエン」は「蜂窩織炎」と書く。外傷から細菌(黄色ブドウ球菌)が皮膚深部に入り込み感染して起こる。組織が蜂の巣のようになるからこう呼ぶとかどうとか……。むくみ(浮腫)、うっ血が原因のひとつで、まず発熱する、という記述もあった。とすると、最初の発熱は蜂窩織炎の兆候だっただろうか?
ともかくいまは、左臀部の褥瘡への感染をなんとしても防がなくてはならない。

参ったなあ……。
懸念事項はほかにもあった。
しかし、それはいまは、いい。

月曜日が待ち遠しかった。朝晩二回、臀部とふくらはぎの患部に薬を塗り直し、カーゼを取り替えなくてはいけない。たしかにこれは家では対応できない。感染するとヤバい黴菌たちは、ふつうの環境にふつうに生息している。完全防御は不可能だ。四六時中母のそばについてもいられない。
入院してほしかった。とりあえずいまは、誰かに母を委ねたかった。治療行為を専門職とする人びとのもとヘ、母を任せてしまいたかった。


10月20日月曜日。
皮膚科を受診。医師は患部を見て「抗生剤が有効なようですね。入院して集中的に投与すれば、必ず効果が出ると思います」と言い、てきぱきと入院手続きを進めた。保険証とお薬手帳、N病院の診察券を預ける。N病院の皮膚科、形成外科は充実していると、医師は言った。私は祈るような思いだった。
預けていた保険証等と紹介状を渡され、皮膚科医院から呼んでくれたタクシーに乗り込み、そのままN病院に向かった。不安そうな表情の母をよそに私は安堵していた。

L'état sérieux? (3)

10月12日日曜日。体育の日。
母は昨夜もぐっすり眠ったようだ。ふだんは夜中何度もトイレに行く。年のせいもあるかもしれないが、母の場合何年も前から、若く元気だった時からそういう傾向があったように思う。私はトイレのために夜中起きるということをまったくしないので、ちゃんと寝た気がしないだろうな昼間しんどいだろうなと、母を見ていつもそう思ったものだ。母は家業や家事の合間、いつも居眠りしていた。だから夜ぐっすり眠れるのは、母の人生にあまりなかったことだろうと思ったし、とてもよいことだと思った。これで、10日の晩と11日の晩、二晩続けてたっぷりと眠り、存分に横になって休めた。家の工事の大工仕事はほぼ終わったし、もうストレスを感じなくていいし、元気になるだろう。よかよか。私はそう思っていた。

朝検温すると36.5度だった。おお、よいではないか。だが、あまりに寝ていたせいで、足元がとても危なかしい。転倒されると困るので、ゆっくりと、ゆっくりと動くようにしつこく言う。母は回復したが、私は疲労がピークだった。今日は運動会だけど、自分が出る時だけグランドヘ行って、あとは家で母の様子を見がてら自分もだらだらゴロゴロするに限る。私はそう決めて、朝食を片づけたあと会場へ出かけた。

体育祭会場である近所の高等学校のグランドと我が家とは、徒歩で5分ほどの道のりだ。行ったり来たりも苦にはならないので文字どおり行ったり来たりした。
会場へ行く→応援する、または写真を撮る→競技に出場する→景品をもらう→家に帰る→母に顛末を語る→会場ヘ行く→模擬店でおにぎりやばら寿司やうどんを買う(正確には事前購入の食券と交換する)→家へ帰る→母と一緒に食べる→少し横になる→会場へ行く→応援する、または写真を撮る→競技に出場する→景品をもらう→家に帰る→母に顛末を語る→会場ヘ行く→閉会式&抽選会に出る→家に帰る→夕食を用意する→シャワーを浴び外出準備をする→母にむやみに動かないように言う→体育祭後の飲み会に出席する→おつかれさーんと互いの労をねぎらって家に帰る→食卓と台所を片づけて、母の寝る仕度を手伝う……

え。
自分の目を疑った。
何、これ?

母の右足ふくらはぎに、大きな大きな内出血らしき真っ赤な「まる」。
ほおずきほどに大きな大きな、水ぶくれのような血豆のようなものがふくらはぎに着いている。いや、着いているというのはもちろん間違いだ。皮下で何かが起こっているのだ。

そして右足は膝から下がぱんぱんに腫れている。
母の足は両足ともいつもむくんでいる。しかし、これは尋常ではないと思った。
なのに、母は足の痛みは少しも訴えない。

「足、痛いことないの?」
「痛いか、て言われたら、痛いかなあ」
新喜劇じゃないが私はずっこけそうになった。
「あのさ、痛いっていうのはさ、本人にしかわからん感覚やからさ、人に言われてから感じるもんと違うからさ」
母は可笑しそうにかかかと笑って「そやなあ」と言い、「歩いてて、ちょっと痛いと思うことあるなあ。なんで?」
真っ赤なほおずきみたいな箇所に少し触れてみた。「痛い?」
母は「何ですか?」みたいな顔をしている。患部じたいは痛くないのか。私は真っ赤な血豆の周囲に触れてみた。するととたんに、
「痛たたたた!」
と母が声を上げた。よかった。痛覚は生きている。
「痛いやろ? なんかわからんけど、すごく血が溜まってる。皮膚の下で膿んでんのと違うか」
「へーえ」
他人事みたいに、ニュースを聞くみたいに、ふんふんとうなずく。
どうしよう。これはこのままだといずれ血豆は破裂する。「ガーゼを当てとくわ。連休明けにお医者さんに診てもらおか」と私は独り言のように口にしたあと、またしても忌々しいハッピーマンデーを呪って舌打ちした。
母はベッドサイドの卓上カレンダーを眺めながら、「連休明けっていうたら火曜日やろ。デイ、行かなあかん」と言う。
「でも、この足のできもんみたいなもん、このままにしとけへんし」
「どないなってんの?」
ガーゼを貼る前に場所を示したが、母にとっては自分が前のめりになることで影になり、ふくらはぎの部分がはっきり見えないようだ。手を誘導して患部に少し触れさせる。「あ、ほんまや。なんかある」

これだけではなかった。
トイレから出た母が言う。「うしろ、なんや痛いねん」
母の紙パンツを少し下げて私はぐがあと声にならない声を出した。「これ!」
「なんかできてるか?」
「ばあちゃん、床ずれできてしもてるわ」
「床ずれ……」
私は母の左臀部に大きく広がる赤斑の端のほうに触れて、痛いかどうか尋ねた。どうやら痛みを感じるのは中央部分だけのようだ。パンツのゴム部分が当たる場所だ。
「ここも、診てもらわなあかんなあ」
私はつぶやきながら、三たびハッピーマンデーを呪いながら、赤斑の中央がずるりと剥けてしまわないことを祈った。そこにもガーゼを貼り、パンツの上げ下げの時に気をつけてねと母に告げて、寝かせた。

10月13日月曜日。振替休日。
母はふつうに起床した。
しかし、前夜に当てておいたガーゼは足もお尻も無残に外れてしまい、血と分泌液でぐっしょりと汚れ、足枕も汚れ、パジャマも汚れ……。いや、汚れは洗濯で落ちるが、この患部はどうすればよいのか。右足ふくらはぎのほおずき大の血豆は見事に破裂し、薄い表皮の向こうに白い皮膚組織が透けて見える。左側のお尻は、赤斑の真ん中あたりの皮が剥け、ヤバさ満開だった。救急を受診するべきなんだろうか。しかし、救急というほどでもない気もする。明日デイを休ませて皮膚科へ行こうか。いや待てよ、先月の頭部の怪我の、再検査日が10月15日だった。受診科は外科だが、お尻と足もこの時に診てもらおう。どうすればいいか、指南してくれるだろう。
ウチには、母の右足拇指の皮膚潰瘍の手当につかった化膿止めの薬がたくさんあった。ひとまずこれをつけておこう。
金曜の発熱時は疲れが原因だと思ったが、これが原因だったかもしれない。土曜日、いったん熱が下がって、再び39度以上の高熱が出た。この高熱は、右足ふくらはぎの腫れや左臀部の床ずれと無関係ではないような気がした。いずれにしろ、いつから発症していたのかはもうわからない。

10月14日火曜日。
母はちっとも起きなかった。8時半、デイサービスの送迎担当者から確認の電話がかかる。「今朝も8時50分のお迎えです」「すみません、今日、休みます。事前連絡できなくてすみません。またちょっと熱があって」
この時点では発熱を確認していなかったが、受話器を置いたあと眠る母の脇に体温計を突っ込んで測ると38度を超えていた。またか……。マズいと思ったが、寝かせておくよりほかにない。家の改修場所では、電気屋さんが電気工事に来ていた。コンセントの位置、エアコンの位置を指示する。
この日母は昼前に起き、遅い朝食を食べ、デイを休んでしまったことを悔やんだ。そない寝てたんか、と呆れたような声で、他人事のように言った。母が起きた時に例の患部二つを見たが、やばい状態がさらに進行しているように見えた。患部そのものが大きくなり、なんつーてもその皮膚の色がこの世のものではないように思えた。
通常、母がデイサービスセンターに通う火曜と金曜に人との約束や役所や銀行などの用事をまとめている。今日も、キャンセルできるものはキャンセルし、行くよりほかないものは、後ろ髪引かれる思いで母を置いて出た。幸い、目下重要な案件だとか急を要する課題など何も抱えていないので、母のことを最優先にして動くことができる。

困ったことがいくつかある。
先月派手な転倒をしたことは書いたが、その後定期検診に訪れた整形外科の主治医が、パーキンソン病の疑いに言及した。パーキンソンといっても、原因不明の難病とされるパーキンソン病そのものである場合、似たような症状の出るパーキンソン症候群である場合などがあり、「はっきり言えへんけど、どちらかである可能性は高いですよ。でもいまはいい治療薬もあるのでそんなに心配しなくていい。早くわかれば対処法はいくつかあります」と医師は言い、まずはMRIを撮ることから始まると続けた。
「前、入院してたね」
「はい、胃潰瘍でT病院、白内障でN病院。頭の怪我でかかっているのはS病院の外科です」
「ああ、S病院の神経内科の先生は、パーキンソン治療で有名な先生ですよ。いま診てもらってるうちに神経内科も予約を入れておくといいですよ」
……といういきさつがあって、10月23日(木)にMRIの予約をしていた。
10月25日(土)は、母の実家の法事だ。母と弟がお参りする予定である。
しかし、母にできた二つの患部からは、いずれもキャンセルに追い込むパワーを感じた。とても、悪い予感がしていた。

10月15日水曜日。
先月の頭部の怪我の最終チェックにS病院へ。再度CTを撮る。異常なし。
医師にお尻とふくらはぎを診てもらった。前後の状況も説明した。
「ああ、典型的な床ずれやね。数時間動かず寝てただけでうっ血するし、お年寄りは床ずれをつくってしまうんや」
しばし考えたのち外科医は、「ちょっとたいへんやけど、毎日消毒してお薬塗って、炎症治まるの待つしかないな。入院したら早いけど、お母さんこれ以上歩けんようになったら困るやろ。入院も良し悪しやねん」と言って大量の塗り薬を処方した。

10月16日木曜日。
いつもは水曜日に通っているリハビリデイサービスを、頭部怪我の検診があるのでという理由で木曜日に振り替えてもらっていた。足とお尻の状態が気になるが、事情を話して、腕や状態の運動だけにしてほしいと告げた。帰宅時、「傷のところ、拝見しました。私見ですけど、ご家庭での手当では限界があるのではないですか」とスタッフが言う。
「皮膚科に見せたほうがいいでしょうか……」
「大きな病院に行かれるとか……」
その夜、手当のために傷口を見たが、よからぬものがばくばくと増殖しているふうであった。ふくらはぎとお尻、それぞれ様態は異なるが、どちらも患部は拡大している。

10月17日金曜日。
かかりつけの皮膚科に連れていこう。と私は決めていたのだが、母は絶対デイに行くと言い張る。事情を話して入浴はなし、右足が腫れているので台に載せるなど足を休ませるようにしてほしいと告げる。センターに詰めている看護師が右足の患部を見てくれたらしい。「これはホーカシキエンだとのことです」(by送迎スタッフ)だそうだ。ホーカシキエン。なんだそれ。
とにかく足はパンパンに腫れたまま、熱も帯びている。母は前夜から四六時中痛いというようになっていた。デイから戻ってすぐ皮膚科医院の夜診へ向かう。
「ああこれは……かなり」
「かなり」
「厳しい状態です」
「厳しい」
「はい、キビシイです」
「キビシイとおっしゃるのは具体的には……」
「ご自宅での手当では追いつかないと思います」
「入院とか」
「のほうが、ですね」
「手術とか」
「場合によっては」
「はあ、そうですか、やはり」
「しかし今日はもう金曜の夜なので、抗生剤をお飲みいただいて、土日は様子を見てください。月曜日、朝一番にお越しください。拝見して、状況によってはすぐに病院を手配します」
15日にS病院の外科でもらったのとはまた異なる塗り薬と、抗生物質の錠剤が処方された。入院したほうがいいみたいよ、と母に告げると、法事行けるやろか、などと言うので、行けるわけないやろ、と返すと、ほなアンタ行ってきてな、などと言う。

いや、法事は弟にひとりで行ってもらおう。パーキンソンの検査はキャンセルだ。うまくいかないときは、何もうまくいかない。

2014年12月29日月曜日

L'état sérieux? (2)

前のエントリーは10月14日火曜日だ。もう2か月半が経ってしまったのか……ここ数日ようやく母も私も現状に慣れて落ち着いてきた気分だ。それにしても、10月10日金曜日に発熱して寝込んで以来、状況は一変したのだった。10月14日に書ききれなかった、母に起きた異変は、15日、16日と悪化の一途をたどった。



10月10日金曜日。デイサービスから帰宅した母は、とにかくすぐにベッドに入ってぐっすり眠った。7〜8時間経った夜の11時頃に一度そっと声をかけてみた。白粥をこしらえたので食べさせようと思った。体温も測りたかった。あまりよく眠っているようだったら無理に起こすのはやめようと思っていたが、意外にすっと目を覚ました。

「ぐっすり寝てたなあ。少し起きられる? お熱測ろか。ほんでご飯少し食べたほうがいいし」
「ん、食べる食べる」
体温を測ると37度台に下がっていた。少し楽になったようだった。おかゆを飯碗一膳分しっかりたいらげて、美味しかったを連発した。私は少し安心した。
このあと母は翌朝までぐっすり眠った。



10月11日土曜日。糖尿病を診てくれているかかりつけ医を受診。この日の朝、体温は37度ちょうどまで下がった。37度前後なら、母の場合あまり心配ない。母自身も安心したのか、朝食を(おかゆだが)しっかり食べ、外出の身支度をした。
主治医は肺炎の恐れがないか、またインフルエンザの検査もしてくれたが、母の体に変わった様子はなく、血糖値も高くはなく、HbA1cとやらも7台で安定値であった。
「疲れがたまって熱出したねえ、前も」
「先生、わたし、家でじっとしてるだけやのに。疲れるようなことしてしまへんのに」
私が横から口をはさみ、しばらく家を工事していて大工の出入りがあったことを説明した。
「通常と違うことがあると、精神的に緊張するしね。そういうことで疲れるんやで」
「そうでっしゃろか」
けっきょく、主治医の見立てでは、今回も発熱についてはさほど心配ないから家で安静にしてなさいということだった。
帰宅して、昼食。気をよくしていた母は、もうおかゆは嫌だという。それでいつものような昼食を準備し、一緒に食べ始めた。
しかし、やはりいつものようには食べ進まない。
「無理に食べんでもええよ。残してもいいし。おかゆに換えよか?」
「食べる食べる。これ、食べる」
だが、皿や飯碗を持っていることができない。母は背中が横にも曲がっているのでまっすぐに座れないのだが、いつもなら傾く身体を自らの力で背もたれに押し当てて座姿勢をキープするところ、やはり体力が落ちているせいかキープできない。椅子からずり落ちそうになるのを何度も押し戻してやる。戻しても戻しても傾くので、押し戻したまま支える。少し落ち着いたか。「大丈夫?」「大丈夫、大丈夫。おおきに」支えていた手を離してお茶を入れるために私は台所に立った。とその瞬間、ドタッ。皿と箸を持ったまま母が椅子から落ちた。ひっくり返った皿から、まだ半分ほどのこっていたおかずが散乱した。
「ああ、ごめん」
「ごめん、はいいけど、その体勢からどうすんのよ」
母の体は椅子から落ちたが、上体だけが右側へ落ちて、左足が椅子に残っているのだ。落ちた場所で、右ひじを床についている。ギャグ漫画の、人物がずっこけるシーンのような、コミカルなポーズだ。しかし笑うに笑えない。ふつうの健康体なら、椅子の上の足も床におろして膝を立ててよいしょと立ち上がればいいだけの話だが、母はその体勢からぴくりとも動くことができない。
床の掃除をしながら、どうしてあげればいいのと私は尋ねた。前日の朝、どうやっても母を起こすことができなかった。今回も無理だ。前日の朝の重労働が響いて、腱鞘炎持ちの私の両腕は痛みで熱くなっていた。非情に聞こえるかもしれないが、いたずらに手を貸して自分の体を壊したくはなかった。
「自分で起き上がってくれんと、困るよ。椅子につかまる? 手押し車のほうがいい?」
母の手押し車を寄せてきて、椅子の上に乗ったままの母の足を「これ、下ろしたほうがいいよね」と言いながら下ろした。母は右膝を曲げることができないが、伸びたままの右膝をリードするほど左足にも力がない。椅子につかまり、冷蔵庫にもたれながら、上体を起こし床に座る姿勢までこぎつけた。もちろん、腰を上げることはできない。椅子にすがってもみるし、手押し車を固定してつかまってみるが、とにかく身体が重すぎる。
ある程度まで上がれば、私の体に母が体を預けるかたちにできるので、そうするとよいしょと全体を持ち上げられる。しかしまったくの地べたから上げるのは負荷が重すぎる、私にとって。食器をすべて流しに移し、食卓を拭きあげて、私は溜め息をついた。ダイニングチェアが2脚、母を包囲するように配置され、そこに割り込むように愛用の手押し車がスタンバイしていた。なのに母は動けない。私が食器を洗っているあいだ、母は疲れきって冷蔵庫にもたれたままだった。また熱が上がるんじゃないかな……。

少し休んでまた力が湧いてきたのか、再び母は椅子にしがみつこうともがき、なんとか左膝を立てるところまでたどり着いた。「そのまま思い切り前に傾いて。前のめりになってみて、椅子にかぶさるように」私の言葉にしたがった母の、お尻の位置が少し上がった。
そこでようやく腰を上げることができ、私の手助けできる段階が訪れた。立てた左膝を維持するため、力なくへにゃっとすぐ伸びてしまう左足を固定する。なんとか上がった腰。それにくっついた棒のような右の脚を、足が床を踏めるところまで誘導する。それにともない左の膝も伸びて、ようやく両足を地に着けて立てた。
母の表情は困憊していた。もうへとへと。それは私もだったけれど。
「休んだほうがいいと思うよ。ベッドに横になり」
「そやなあ」
「明日、運動会やし」
「うん、観に行きたいしなあ」
そう、翌日の10月12日土曜日は、地域の学区体育祭なのだ。私もいくつかの種目に出場することになっていたので、母は観戦を楽しみにしていた。会場の模擬店で、うどんやお菓子を食べるのも大きな楽しみのひとつだった。
ようやく寝室へたどり着く。着替える。布団に入る。それから間もなくして大きないびきをかき始めた。
発熱は体力を奪うが、高齢者の場合はそれが甚だしい。転倒して起き上がるだけでも、体の不自由な高齢者にとっては非日常的な一大イベントというか一大重労働だ。母の場合、これまで幾度となく転倒を繰り返しており、自分でも起き上がるコツを心得てはきたが、実際衰えのスピードが激しく、こうすればコケても起きられるはず、という母なりの方法が母にも理解できないまま、もう使えなくなっている。

窓の外が暗くなった頃、母の様子を見に寝室を覗く。ごーごーいびきをかいている。体に触ると異常に熱かった。やば。再び熱が高くなっているようだ。明日出かけるなんてもってのほかやわ……つーか、ばあちゃん置いて私運動会行けるやろか……とひとりモゴモゴつぶやきながら、母のいびきを聞いていた。
夜中、もう一度覗くと母が目を開いた。
「熱が高くなってるみたいやで」
「そうか? かなんわあ」
「ちょっと測らせて」
39度を超えていた。よく寝てね。それだけ言って私は母の寝室をあとにした。日・月と連休が恨めしかった。まったくどこかのバカどもたちが決めたハッピーマンデーなんぞ、何もいいことはもたらさない。心の中で舌打ちをしつつ、でもなんのかの言っても私は明日走らなくちゃならないしなあと憂鬱な気持ちで、私も床についた。

 


2014年10月14日火曜日

L'état sérieux? (1)

週末、母が発熱した。
金曜日はデイサービスセンターにいたが、来所時に熱が高めであったということで入浴はやめ、午後再度検温すると38.5度だったという。
帰宅した母はほとんど歩行ができなかった。

その日は朝から異変続きだった。早朝まだ暗いうちに、トイレに行こうとしてベッドから立ち上がりそこね、転倒したらしい。私が起きて階下へ降りるとベッドの脇で情けない顔をして座っていた。母は床へぺたっと腰が着いてしまうともう自力では起き上がれないし、座る姿勢にもなれない。ここでの場合はベッドにもたれて座姿勢を保っていたにすぎない。だいぶ長いことそうしていたようである。
猫が来てさかんににゃーにゃーと声をかけてくれたらしい(笑)。猫は猫なりに心配して、階下の異変を私に知らせてくれたのだろうか。この日の朝、私は猫があまりに耳元でにゃーにゃーいうので5時に目が覚めてしまった。餌をねだって朝からうるさいのはいつものことだからたいして気にも留めずゆっくり起床したのだった。
ところが、母が床で固まっている。

こういうとき、私はまるで役に立てない。腰痛と背痛、両手首痛があるせいで、45キロの母を抱え上げたり支えたりできないのである。昨冬、検査に訪れた病院の待合室で、椅子から立ち上がりそこねた母を咄嗟に支えて腰にドカーンときた。私の腰痛歴は高校1年生のときからなのでもうほぼ35年のベテランであり、腰に負担のかからないような動作で日々生きておるゆえ、ふだんはなにごともないように振る舞っているのだが、突発的な事象に遭遇したり姿勢を変えずにいることを長時間強いられたりすると激痛に見舞われ、とたんにアカンタレな体になってしまう。と言うと、そうした事態は稀なことなのだなと思われるかもしれないが実は毎日そうなのである。「姿勢を変えずに長時間」には就寝も含まれる。だから毎朝激痛と闘いながら起床するのだ。
そのようにとってもカワイソーな私の毎朝は、ゆっくりと少しずつ体を端から順に動かしながら体内の巡りを潤滑にしながらアイタタアイタタアイタタと呪文のようにぶつぶつつぶやきながら、始まる。
やっとふつうに動けるようになると起床、階下へ降り、洗濯と食事の仕度をはじめる。私は私で一日痛みなく無事に過ごすために用心に用心を重ねて慎重に寝起きしているありさまだというのに。
なのに、母が床で固まっている。

「どうしたん? 落ちたん?」
「なんや、知らんにゃけど、うまいこと立てへんかった」

母の左足が転倒のはずみなのか、お尻の下に敷かれていた。まずその左足を前へ出す。
「いたた」
左足は悪くないほうの足なので、大事に健康を保たなければならない。もしかしたら怪我したのでは、と思ったが、どうやら左足は無事のようだ。しかしこのままでは起きられないし、起こせない。なんとか自力で中腰くらいまでは上がってもらわないと、支えたくても重すぎる。
「トイレ行きたい」
状況を理解しているんだかいないんだか、希望だけははっきりおっしゃるのである。
ベッド下にはマットを敷いてある。キッチンマットみたいなやつだ。ちょうどそのうえで動けなくなっているので、マットの裏の滑り止めを引きはがし、母をマットに乗せた状態でマットごと引きずり、壁際へ寄せ、トイレ近くまで移動(トイレは寝室内にあるのだ)。壁には手すりがある。なんとかつかまり立ちができるように、手すりをつかませてみる。もう一方の手は歩行器のハンドルをもたせてみる。よいしょと立ち上がれないだろうか。
……全然ダメ。
母は両腕ともけっこう力があり、握力もしっかりある。両脚のへにょへにょ具合とは雲泥の差。しかし、母も自分の腕の力だけで体を持ち上げなくてはならない事態になるなんて想像していなかったであろう。
以前は、四つん這いの姿勢から何かにつかまることで起き上がることができた。しかし今は、その四つん這いの姿勢になるためのハードルはとてつもなく高い。手をいったん手すりから離して床につき、膝を立て腰を上げてみようとしたが、ダメ。大きく曲がった背骨のせいで体が傾き、傾くに任せて倒れてしまう。もう一度起こしてとにかくどこかをつかませ、わずかに浮いた脇に床に這いつくばった私が頭から突っ込んで全身の力で持ち上げてみる。重い。これで上体を起こせたが、今度は足を立たせなくてはならないが、上体を起こした姿勢を維持できないので、腿を上げ、膝を出し、足の裏で床を踏ん張る段階までいかないうちに倒れてしまう。そしてやり直し。パワーのない母も疲れるだろうが、私もへとへと。

そんな状態であっという間に7時になった。朝食の時間だ。用意はしたのだが、母が動けないままだ。途方に暮れていると、
「おはようございまーす」
大工さんが来た! 救世主!
我が家は今部分的に工事中。7時過ぎから5時過ぎまで大工さんが作業をしに来る。この日は、大工仕事の部分が終了する予定日だ。はりきって仕事に取りかかろうとする大工さんに「あのーすみませんがちょっと手伝ってもらえます?」

床で動けなくなっている母を、大工さんはせーの、はいっと起こしてくれた。ああやはり殿方の馬力は桁違い。感謝。
なんとか立つことのできた母だが、歩行器につかまっても、歩けない。しかし歩く以外には移動方法がない。2、3センチずつ、歩くというより足を交互に前へ出す。手すりにへばりつきながらようやくトイレへ。
トイレから立ち上がるのにも時間を要し、トイレから出て再びベッドサイドへ戻って着替えるのも、いつもの倍以上の時間がかかった。転倒から起き上がるまでの間にエネルギーをすべて費やしてしまったかのように、母の動きは前日までと打って変わって鈍かった。
ようやく食卓に着いたら、8時を過ぎていた。

デイサービスに電話をし、送迎時間を少し遅らせてもらうように頼んだ。

週に2回、9時前に出て3時頃帰る母の通所に合わせて、私は外出のスケジュールを立てている。この日も10時から2時半まで3件のアポを詰めて入れていた。だが母の仕度が進まない。9時45分、ようやくデイの車に乗せることができた。私はアポ先に電話をし、約束の時間に遅れることを告げた。まったく大わらわの朝だったが、デイヘ行ってくれれば職員さんたちの目があるのでひと安心である。

と、思っていたのだが、甘かった。
3件めのアポを終え、帰路に着こうとすると電話が鳴った。デイサービスセンターの主任さんだった。熱がありますがお宅までお送りしますか、それともお医者さんに直行もできますが、という内容だった。かかりつけ医は診察時間外だ。自宅までひとまず送り届けてくれと答える。
帰宅して待っているとほどなくデイの車が到着。主任さんが付き添って家の中まで入り、ダイニングの椅子に座らせてくれた。
「来所時もお熱があって、そのあとどんどん高くなって」
「すみませんでした。朝、何度も体を抱えたけど、熱っぽさはなかったので……。食事はしましたか?」
「主食は半分くらい、おかずは7割、8割くらい食べはりました」
「そうですか」
「お元気がないので……横になりましょうかと声をかけても絶対嫌やと言わはりまして」
毎回、体操やゲーム、クイズ遊びなどレクレーションがあるのだが、何にも参加せずソファに座ってぼーっとしていたそうだ。

少し落ち着いてから検温すると38.7度。
以前外科でもらった頓服薬をとりあえず飲ませることにする。
「寝なあかんよ」
「そうか、しゃあないな」
寝室まで長い道のりを少しずつ進む。
トイレまで長い道のりを少しずつ進む。
ベッドに座り、着替えるのが大仕事。
着替えて、ベッドに横たわるのも大仕事。

3時40分。母はすぐ眠った。派手ないびきが聞こえる。

2014年10月8日水曜日

"Je ne comprends pas pourquoi je suis blessé la tête."

ある水曜日の朝。
母はいつもの水曜日と同じようにリハビリデイサービスヘ行くため身支度をしていた。夏の間はTシャツとズボンという軽い服装そのままで出かけられたが、朝夕少し涼しくなってきていたので、一枚羽織りものを取り出して、歩行器にかばんと一緒に乗せてダイニングまで歩いてきた。その姿は、台所の流しで食器洗いをしていた私の視界の隅っこに入っていた。

次の瞬間、ギギッと車輪と床が擦れる音(歩行器をブレーキをかけたまま引きずった時の音)がして、振り向いたら母の体が今まさに床に倒れようとしていたところだった。わああああ、危ない!

ドッタアアアアアアッッッ……

ものすごい音がした。母はよく転倒するが、これまでになくパンチの効いた音だった。腰の骨が折れたぞ。私は咄嗟にそう思った。母の体はお尻から床に落ち、落ちた勢いで体は仰向けに寝そべるような恰好になった。自力で起き上がろうともがく母に近寄り、怪我してるかもしれんから無理に動いたらアカン、と言い終わらないうちに私はええっ何これなになにどうしたのっと叫んでいた。
「なんえ? なんかあんの?」
母はきょとんとして私の顔を見ている。
「ばあちゃん、頭から血が出てきたよ、今、頭打った? そうは見えへんかったけど」
「打ってへん」
手を伸ばしてティッシュを数枚引き出し、前頭部を押さえた。どうしたんどうしたんと娘が駆け寄る。「すごい音、したなあ。トイレまで聞こえてたで。うわ、やばいこの血、さっきの音、頭?」
「いや、頭は打ったはらへんと思う。なんでかわからへん、どこかに当たったんやろけど……とにかく電話するし、ちょっと支えてて」
私は救急車を呼び、リハビリデイサービスに欠席の電話をした。ほどなく救急車が到着し、隊員のみなさんがてきぱきと処置をし、搬送先を手配してくれた。

「えーと、このかたお名前は。おいくつですか。ここにおひとりでお住まいですかね、あなたヘルパーさん?」
「へ、ヘルパー? さっき母が転倒して怪我をしたと電話でいいましたけど」
「え? あ、そう、娘さんですか。ご家族と住まわれてるんですか、ああそうですか」

失礼なやつだ、と思いながら、隊員のセリフからは独居老人の多さが窺えるいっぽう、ちゃんと家族と一緒に住んでるお年寄りがなんで家の中でコケるんだよ、みたいな非難めいた色を感じ、それに反論できない自分を発見したりする。

勤めを辞めて家に居ることにしたのは、母から目を離さないためである。しかし、だからといって1秒も目をそらさず見続けることなんてできない。私は今すべての家事をしている。台所は対面式ではないので炊事や洗い物をしているときは母に背を向ける。洗濯機も裏にあるし、物干しは屋上だ。母は1階で、私は2階で就寝する。
そうした、母から目を離すわずかな時間の間に母は転倒したり椅子からずり落ちたりベッドから転落したりする。以前は杖を持ち、今は歩行器にすがって歩いている。母の部屋にもトイレにも浴室にも手すりがある。それなのに、その杖や歩行器のハンドルや手すりを掴み損ねて転倒されては、これ以上打つ手がないではないか。

この日の朝の転倒は、立ったまま上着を羽織ろうとしたことが原因だった。
立ったまま服を着る。つまり、服を持ち、袖を通すという動作は、どこか手すりを掴んでいたり、歩行器のハンドルを持ちながら、ではできない。両手がフリーになる必要がある。すなわち、二本足で「自立」していなければならない。
母は、二本足で自立できない。
何度も痛い目をして、じゅうぶんわかっているはずなのに、いまなお母はつい両手を離したり、手すりやハンドルを握り損ねて「フリーハンド」状態になっては転倒する。
なぜ、何も掴まずに立っていようなどと思うのか、不思議でならないが、「かつてできていたはずのことができなくなってしまう」ことを自覚する難しさは、おそらく私たち「若造」の想像の域を超えているのだろう。母は明らかに、戸惑っている。自分の活動領域が急速に狭まり、日に日に自由の利かなくなる体に退化していることに。その老化、あるいは病気の進行の速度に、理解が追いつかないのだ。

Mちゃんの可愛い赤ちゃんを見て、漬物屋のおかみさんとしばし談笑して、ちょっぴり活力のおすそ分けをしてもらったせいか、元気な振る舞いを見せてくれるのはいいのだが、調子に乗って「以前のように」動くと思わぬ落とし穴に落ちてしまう。今回はその悪しき一例と言っていい。それでなくても、リハビリデイサービスの日の朝は毎回どことなく「今日もはりきって行きましょう!」的な、母なりにハイテンション気味なのが感じられるし。
というふうに、いくつかの「活力アップ要素」が働いて無謀にも両手を離して二本足で立つという行動に出て、転んじゃったわけである。

「なんで頭を怪我したんやろ。お尻はキツう打ったけど、頭は全然打ってへん。何で頭から血が出たんやろ」
母はいつまでもつぶやいていた。同感。今回の怪我は謎だ。我が家のどこかにミステリーゾーンがあるのか、どこかにちっちゃい小悪魔さんが棲んでいるのか。

幸い怪我は大事に至らなかったが、一瞬大騒ぎをした。
救急車などが我が家の前に停まったので、お向かい、お隣をはじめ町内会の面々が取り囲んで騒然としていた。みなさん、お騒がせしてすみません。

2014年9月29日月曜日

"Ce n'est pas évident, voir un bébé, mais il est toujours si beau, le bébé."

今月初め、予定日より一日早く、Mちゃんに男の子が誕生した。3000グラムを超える大きな赤ちゃんだ。比較的安産で、イタタ、と言ってる間に生まれたとな。
めでたしめでたし。

さて、Mちゃん夫婦の新居は東海地方なのだが、今回は里帰り出産をしたのである。Mちゃんが選んだ産院はウチの近所。私の足なら歩いて5分、信号待ちに遇ったらプラス1分くらいかな。古くからあるので地域では馴染みの産院である。母もその名前をよく知っている。だから「生まれたら、見にいこな」と、Mちゃんが大きなお腹を抱えてウチを訪問してくれたときからそれはそれは楽しみにしていた。

誕生の一報を聞いて私たちはさっそくMちゃんを訪ねる段取りをした。母は二つ上の実姉も誘うという。
「そんなら早めにいうて、お祝いとか打ち合わせしといたほうがええんちゃうの」
「そやなあ。姉さんに電話するわ」
と言い終わるやいなや母は電話のそばへ行くため腰を上げようと何回もトライしようやく電話機にたどり着き、そらんじている伯母の番号を押した。何度も同じフレーズが母の口から繰り返されて、ようやく話がまとまったらしい。
「明日、10時にウチへ誘いに来るて」

伯母は母より年が上で過去に大病も患ったのに、背筋は伸びて足もしっかりしていて、母と一緒にいると母が伯母の十歳上の姉みたいに見える。ところが若干物忘れが激しい。ここ何年かの間に不幸が何度もあったので、親族どうし会う機会が多かったが、母の兄弟姉妹たちは皆頑健でしゃきっとしているように見え、その実、やはり頭は母がいちばんしっかりしているということを、私は幾度となく確認した。いや、もちろんそうでないと困るが、動かないで日がな一日ボサーと座っている母にボケの兆しはなく、お稽古事に行ったり畑仕事を続けたり写経に通ったりしている母の兄や姉は、どうも会話がかみ合わなかったり、伝言が伝わらなかったり、昨日と同じ話を今日もしたり、といささか心もとないのである。

翌日、10時前になったので母はそろそろと玄関口のほうへ動き始めた。伯母がきたらすぐに出られるように。しかし10時を少し過ぎた頃電話が鳴った。伯母だった。
「お祝いてなあ、やっぱり午前中に行かなあかんやろか」
「え? 伯母ちゃん、今日来れへんようになったん?」
「いや、そうやないけど、まだこれから用意するし」
「そうなん? ウチのお母ちゃん10時に約束したて言うたはったえ」
「あ、そう? 10時て。今何時……10時まわってるなあ」
「待ってるから用意できたら来て。とにかく母に代わるし、そう言うてくれる?」
といって母に受話器を渡した。
「あんた、どないしてんの……待ってるえ……11時半までに来れへんか? そうか、ほな待ってるさかい来てや」

子機を私に渡しながら「11時に行けるっていわはんねん、けど、私は無理やと思うねん」とつぶやく母。
「ほな、気長に待ってたげよ。産院はすぐそこやし。11時に行くって伯母ちゃんが言わはったんやったら来ゃはるやろ」
と私は応じたが、11時を10分ほど過ぎたあたりから母がぶつくさと文句を言い出した。
「ほんまに姉さん、何したはんにゃろ」
「11時に来るのなんか無理やってさっき自分で言うてたやん、予想してたとおりやん」
「言うてたけど、それでも来ゃはるかなと期待したのに」
11時20分。
「もうほんまに、何してんの」
「これからぜったい姉さん誘わへんわ」
「いいかげんにしてほしいわ」
怒り心頭である(笑)。
しかしいくらなんでもそろそろ到着だろうと思い、私は外出の用意の仕上げにかかった。
11時半を2分ほど過ぎて、伯母が来た。「ごめんごめんー」
まあ、なんつーか、よかったよかった。というわけで3人で出かけた。

しかしほんとうにたいへんだったのはここからである。

母の足だと15分はかかるかな、と思っていたら25分かかった。近所とはいえ、その産院はいつもは歩かない方角にあり、道に馴染んでいないので、思わぬ段差や突起物に遭遇しやしないかと慎重に歩を進めざるをえなかったことも理由のひとつであるが、とにかく足の力の衰弱は甚だしい。リハビリデイサービスも、まったく効果なしである。

ようやくたどり着いた産院は、玄関口に高い高い石段があった。これでは手押し車は役に立たない。伯母と二人掛かりで母の足を段に乗せ体を引き上げる。ようやくドアを通過すると今度は「スリッパにお履き替えください」の札が。2足制だとぉ〜? 母は立って靴を脱ぎスリッパに履き替えるなんて芸当はできないのだ。
「すみません、椅子を貸してください」
受付には数人の女性がいて、私たちが入るのを見守っていたようだが、様子を見て声をかけるとか手伝おうとかしに来いよ、と私は内心あきれ果てていた。しかし当然かもしれない。ここは産婦人科医院だ。高齢者の来るところではない。職員も気が利かないのだ。
ようやく、ウチの母が相当に動作に難儀なことが伝わったのか、椅子を持ってきた女性が「申し訳ないんですけど、エレベータはあちらの奥です」と待合室の向こう側を指さした。そして「ここも昇っていただかないと……不便なつくりですみません」と待合室手前の3段ほどの小階段を指し示した。私と伯母は母の両脇を抱えて昇らせた。
「はあ、ひと騒動やなあ。かんにんえ、私のためになあ」
すまなそうな顔で姉に詫びる母。さっき怒りまくってたのが嘘のようだ。ま、これでおあいこだ。
それにしても、入口の大きな石段といい、室内のあちこちにある段差といい、ひとつ間違えれば妊婦さんだって転倒の恐れはある。この産院、建物のつくりはいささか前時代的だ。これだと遠からず妊婦も来なくなるんじゃないかと思うけれども……。

そしてようやくようやくようやく(笑)たどり着いたMちゃんの部屋。赤ちゃんも小さなベッドに眠っていた。
「わあ、ちっちゃーい! 可愛い〜〜」オババ3人で歓声を上げる。
Mちゃんのひとまわり年上のダンナもいた。私は笑いがこみ上げるのをなんとか押さえながら「初めまして」と簡単に挨拶をした。ダンナは腰の低い、好感の持てる態度だったが、知らない人ばかりが来てお祝いを置いていったりするのにどう対処したらいいのかわからないふうだった。ちゃんと挨拶しないといけないんだけど何をなんて言おう、みたいな顔をして、少々うろたえているふうだったがでも嫁のベッドの端にちょこんと座り、たいへんリラックスしたふうでもあった。ま、オババ3人にとっては彼のことはこの際どうでもいいのであった。

私が代表で、赤子を抱っこさせていただく。
ちっちゃい。軽い。こわれそうだ。私の腕の中で、しきりに顔をくちゃくちゃさせて、突然賑やかになった周囲の音が耳障りなのだろうか、でも目はなかなか開かず閉じたまま、しかし口は何度も大きく開けてあくびをした。
「ごめんなあ、おねむやのに。おばちゃんうるさいなあ」
冬に友人に子が生まれ、また別の、こことは違ってたいへん新しい産院を訪ねたときも、抱っこしてしきりに話しかける私のことなど全然見ずに、赤子は顔いっぱいに口を広げてあくびをしていた。そうそう、子どもは寝るのが仕事。寝てても、顔をくしゃくしゃにしても、あくびばかりしていても、赤ちゃんって美しい。命の発露そのもの。真っ赤な小猿みたいだけど、光り輝いているのだ。

Mちゃんを訪ねるまでの長い長い旅路(笑)の話を少しだけ披露した。
「ほんまになあ、私がこんな足やから、たいがいやないわ、ここまで来るの。赤ちゃん見に来るのってひと仕事やわ」
「ありがとうございます、おばちゃん、そんなたいへんやのに来てもろて」
「それでもそないしてでも、来る値打ちあるえ。赤ちゃんはええわあ。可愛いわ、ほんまに可愛いわ」と母。
「元気、もらえるわ」と伯母。

産院をあとにし、伯母と別れたあと、商店街の漬け物屋さんへ足をのばした。疲れただろうと思ったが、お漬け物を買いたがっていたので尋ねると、「行く行く」という。
漬け物屋さんのおかみさんは母のおしゃべり友達で、毎日のように買い物に来ていた頃は必ず足を止め、子育てのこと、姑のこと、実の親兄弟のことなどふたりで愚痴の大売り出しをし合ったそうだ。今、商店街ヘ行くのは母にとってあまりに「遠足」だが、漬け物屋さんにはときどき連れていくことにしている。
「姪の娘に赤ちゃんが生まれて、見てきたんえ」
「そらええわあ。できたてほやほやや。生命力、もらわんとなあ」

ほんとうに、Mちゃんの赤ちゃんのおかげで、母には少し活力がついたように見えた。
しかしそれから間もなく、ちょっぴり活気づいたことが徒になる出来事が起きてしまう。
まったく、物事はうまくいかないようにできているらしい。