2014年10月8日水曜日

"Je ne comprends pas pourquoi je suis blessé la tête."

ある水曜日の朝。
母はいつもの水曜日と同じようにリハビリデイサービスヘ行くため身支度をしていた。夏の間はTシャツとズボンという軽い服装そのままで出かけられたが、朝夕少し涼しくなってきていたので、一枚羽織りものを取り出して、歩行器にかばんと一緒に乗せてダイニングまで歩いてきた。その姿は、台所の流しで食器洗いをしていた私の視界の隅っこに入っていた。

次の瞬間、ギギッと車輪と床が擦れる音(歩行器をブレーキをかけたまま引きずった時の音)がして、振り向いたら母の体が今まさに床に倒れようとしていたところだった。わああああ、危ない!

ドッタアアアアアアッッッ……

ものすごい音がした。母はよく転倒するが、これまでになくパンチの効いた音だった。腰の骨が折れたぞ。私は咄嗟にそう思った。母の体はお尻から床に落ち、落ちた勢いで体は仰向けに寝そべるような恰好になった。自力で起き上がろうともがく母に近寄り、怪我してるかもしれんから無理に動いたらアカン、と言い終わらないうちに私はええっ何これなになにどうしたのっと叫んでいた。
「なんえ? なんかあんの?」
母はきょとんとして私の顔を見ている。
「ばあちゃん、頭から血が出てきたよ、今、頭打った? そうは見えへんかったけど」
「打ってへん」
手を伸ばしてティッシュを数枚引き出し、前頭部を押さえた。どうしたんどうしたんと娘が駆け寄る。「すごい音、したなあ。トイレまで聞こえてたで。うわ、やばいこの血、さっきの音、頭?」
「いや、頭は打ったはらへんと思う。なんでかわからへん、どこかに当たったんやろけど……とにかく電話するし、ちょっと支えてて」
私は救急車を呼び、リハビリデイサービスに欠席の電話をした。ほどなく救急車が到着し、隊員のみなさんがてきぱきと処置をし、搬送先を手配してくれた。

「えーと、このかたお名前は。おいくつですか。ここにおひとりでお住まいですかね、あなたヘルパーさん?」
「へ、ヘルパー? さっき母が転倒して怪我をしたと電話でいいましたけど」
「え? あ、そう、娘さんですか。ご家族と住まわれてるんですか、ああそうですか」

失礼なやつだ、と思いながら、隊員のセリフからは独居老人の多さが窺えるいっぽう、ちゃんと家族と一緒に住んでるお年寄りがなんで家の中でコケるんだよ、みたいな非難めいた色を感じ、それに反論できない自分を発見したりする。

勤めを辞めて家に居ることにしたのは、母から目を離さないためである。しかし、だからといって1秒も目をそらさず見続けることなんてできない。私は今すべての家事をしている。台所は対面式ではないので炊事や洗い物をしているときは母に背を向ける。洗濯機も裏にあるし、物干しは屋上だ。母は1階で、私は2階で就寝する。
そうした、母から目を離すわずかな時間の間に母は転倒したり椅子からずり落ちたりベッドから転落したりする。以前は杖を持ち、今は歩行器にすがって歩いている。母の部屋にもトイレにも浴室にも手すりがある。それなのに、その杖や歩行器のハンドルや手すりを掴み損ねて転倒されては、これ以上打つ手がないではないか。

この日の朝の転倒は、立ったまま上着を羽織ろうとしたことが原因だった。
立ったまま服を着る。つまり、服を持ち、袖を通すという動作は、どこか手すりを掴んでいたり、歩行器のハンドルを持ちながら、ではできない。両手がフリーになる必要がある。すなわち、二本足で「自立」していなければならない。
母は、二本足で自立できない。
何度も痛い目をして、じゅうぶんわかっているはずなのに、いまなお母はつい両手を離したり、手すりやハンドルを握り損ねて「フリーハンド」状態になっては転倒する。
なぜ、何も掴まずに立っていようなどと思うのか、不思議でならないが、「かつてできていたはずのことができなくなってしまう」ことを自覚する難しさは、おそらく私たち「若造」の想像の域を超えているのだろう。母は明らかに、戸惑っている。自分の活動領域が急速に狭まり、日に日に自由の利かなくなる体に退化していることに。その老化、あるいは病気の進行の速度に、理解が追いつかないのだ。

Mちゃんの可愛い赤ちゃんを見て、漬物屋のおかみさんとしばし談笑して、ちょっぴり活力のおすそ分けをしてもらったせいか、元気な振る舞いを見せてくれるのはいいのだが、調子に乗って「以前のように」動くと思わぬ落とし穴に落ちてしまう。今回はその悪しき一例と言っていい。それでなくても、リハビリデイサービスの日の朝は毎回どことなく「今日もはりきって行きましょう!」的な、母なりにハイテンション気味なのが感じられるし。
というふうに、いくつかの「活力アップ要素」が働いて無謀にも両手を離して二本足で立つという行動に出て、転んじゃったわけである。

「なんで頭を怪我したんやろ。お尻はキツう打ったけど、頭は全然打ってへん。何で頭から血が出たんやろ」
母はいつまでもつぶやいていた。同感。今回の怪我は謎だ。我が家のどこかにミステリーゾーンがあるのか、どこかにちっちゃい小悪魔さんが棲んでいるのか。

幸い怪我は大事に至らなかったが、一瞬大騒ぎをした。
救急車などが我が家の前に停まったので、お向かい、お隣をはじめ町内会の面々が取り囲んで騒然としていた。みなさん、お騒がせしてすみません。

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