2014年12月30日火曜日

L'état sérieux? (4)


10月18日土曜日。
朝、ガーゼを外して驚いた。明らかに薬が効いた様子だった。悪玉菌目下活動中といわんばかりの患部の生々しさが少し和らいだように見えた。悪化が止まったのだ。薬が効く。治る見込みがあるということだ。

前日皮膚科で尋ねた。
「なんでこんなものができてしまったんでしょうか」
二日間ほど熱のため臥せっていたとつけ加えた。
「ああ、たぶんそれですね。お年寄りは、2時間ほど動かず寝ているだけで床ずれができます。床ずれのできる部位はお尻に限りません」
お尻もふくらはぎも、わずかな間「寝たまま」だったことに起因する床ずれなのだ。業界用語では褥瘡というが、褥瘡ができたらいちばん恐れるべきは感染である。が、残念ながら現状は感染が疑われる。
「ふくらはぎのほうの、この白いのはどういう状態なんですか」
最初できていた血瘤が破裂したあと、生々しい患部が見えたが、まもなくその大半が白い組織で覆われた。
「皮膚や筋肉が、死んでるんです」
「死んでる。もう生き返らないんですか」
「生き返りません。この部分は切除するしかないです。ここを切除して、下から新しい細胞が皮膚を形成するように促すということをしていくと思いますが……お母さまは糖尿病がおありなのでなかなか……」
悪化のスピードはとてつもなく早く、回復のスピードはとてつもなく遅い。糖尿病のリスクはあらゆるところに潜む。

デイサービスのスタッフが言っていた「ホーカシキエン」も調べてみた。「ホーカシキエン」は「蜂窩織炎」と書く。外傷から細菌(黄色ブドウ球菌)が皮膚深部に入り込み感染して起こる。組織が蜂の巣のようになるからこう呼ぶとかどうとか……。むくみ(浮腫)、うっ血が原因のひとつで、まず発熱する、という記述もあった。とすると、最初の発熱は蜂窩織炎の兆候だっただろうか?
ともかくいまは、左臀部の褥瘡への感染をなんとしても防がなくてはならない。

参ったなあ……。
懸念事項はほかにもあった。
しかし、それはいまは、いい。

月曜日が待ち遠しかった。朝晩二回、臀部とふくらはぎの患部に薬を塗り直し、カーゼを取り替えなくてはいけない。たしかにこれは家では対応できない。感染するとヤバい黴菌たちは、ふつうの環境にふつうに生息している。完全防御は不可能だ。四六時中母のそばについてもいられない。
入院してほしかった。とりあえずいまは、誰かに母を委ねたかった。治療行為を専門職とする人びとのもとヘ、母を任せてしまいたかった。


10月20日月曜日。
皮膚科を受診。医師は患部を見て「抗生剤が有効なようですね。入院して集中的に投与すれば、必ず効果が出ると思います」と言い、てきぱきと入院手続きを進めた。保険証とお薬手帳、N病院の診察券を預ける。N病院の皮膚科、形成外科は充実していると、医師は言った。私は祈るような思いだった。
預けていた保険証等と紹介状を渡され、皮膚科医院から呼んでくれたタクシーに乗り込み、そのままN病院に向かった。不安そうな表情の母をよそに私は安堵していた。

L'état sérieux? (3)

10月12日日曜日。体育の日。
母は昨夜もぐっすり眠ったようだ。ふだんは夜中何度もトイレに行く。年のせいもあるかもしれないが、母の場合何年も前から、若く元気だった時からそういう傾向があったように思う。私はトイレのために夜中起きるということをまったくしないので、ちゃんと寝た気がしないだろうな昼間しんどいだろうなと、母を見ていつもそう思ったものだ。母は家業や家事の合間、いつも居眠りしていた。だから夜ぐっすり眠れるのは、母の人生にあまりなかったことだろうと思ったし、とてもよいことだと思った。これで、10日の晩と11日の晩、二晩続けてたっぷりと眠り、存分に横になって休めた。家の工事の大工仕事はほぼ終わったし、もうストレスを感じなくていいし、元気になるだろう。よかよか。私はそう思っていた。

朝検温すると36.5度だった。おお、よいではないか。だが、あまりに寝ていたせいで、足元がとても危なかしい。転倒されると困るので、ゆっくりと、ゆっくりと動くようにしつこく言う。母は回復したが、私は疲労がピークだった。今日は運動会だけど、自分が出る時だけグランドヘ行って、あとは家で母の様子を見がてら自分もだらだらゴロゴロするに限る。私はそう決めて、朝食を片づけたあと会場へ出かけた。

体育祭会場である近所の高等学校のグランドと我が家とは、徒歩で5分ほどの道のりだ。行ったり来たりも苦にはならないので文字どおり行ったり来たりした。
会場へ行く→応援する、または写真を撮る→競技に出場する→景品をもらう→家に帰る→母に顛末を語る→会場ヘ行く→模擬店でおにぎりやばら寿司やうどんを買う(正確には事前購入の食券と交換する)→家へ帰る→母と一緒に食べる→少し横になる→会場へ行く→応援する、または写真を撮る→競技に出場する→景品をもらう→家に帰る→母に顛末を語る→会場ヘ行く→閉会式&抽選会に出る→家に帰る→夕食を用意する→シャワーを浴び外出準備をする→母にむやみに動かないように言う→体育祭後の飲み会に出席する→おつかれさーんと互いの労をねぎらって家に帰る→食卓と台所を片づけて、母の寝る仕度を手伝う……

え。
自分の目を疑った。
何、これ?

母の右足ふくらはぎに、大きな大きな内出血らしき真っ赤な「まる」。
ほおずきほどに大きな大きな、水ぶくれのような血豆のようなものがふくらはぎに着いている。いや、着いているというのはもちろん間違いだ。皮下で何かが起こっているのだ。

そして右足は膝から下がぱんぱんに腫れている。
母の足は両足ともいつもむくんでいる。しかし、これは尋常ではないと思った。
なのに、母は足の痛みは少しも訴えない。

「足、痛いことないの?」
「痛いか、て言われたら、痛いかなあ」
新喜劇じゃないが私はずっこけそうになった。
「あのさ、痛いっていうのはさ、本人にしかわからん感覚やからさ、人に言われてから感じるもんと違うからさ」
母は可笑しそうにかかかと笑って「そやなあ」と言い、「歩いてて、ちょっと痛いと思うことあるなあ。なんで?」
真っ赤なほおずきみたいな箇所に少し触れてみた。「痛い?」
母は「何ですか?」みたいな顔をしている。患部じたいは痛くないのか。私は真っ赤な血豆の周囲に触れてみた。するととたんに、
「痛たたたた!」
と母が声を上げた。よかった。痛覚は生きている。
「痛いやろ? なんかわからんけど、すごく血が溜まってる。皮膚の下で膿んでんのと違うか」
「へーえ」
他人事みたいに、ニュースを聞くみたいに、ふんふんとうなずく。
どうしよう。これはこのままだといずれ血豆は破裂する。「ガーゼを当てとくわ。連休明けにお医者さんに診てもらおか」と私は独り言のように口にしたあと、またしても忌々しいハッピーマンデーを呪って舌打ちした。
母はベッドサイドの卓上カレンダーを眺めながら、「連休明けっていうたら火曜日やろ。デイ、行かなあかん」と言う。
「でも、この足のできもんみたいなもん、このままにしとけへんし」
「どないなってんの?」
ガーゼを貼る前に場所を示したが、母にとっては自分が前のめりになることで影になり、ふくらはぎの部分がはっきり見えないようだ。手を誘導して患部に少し触れさせる。「あ、ほんまや。なんかある」

これだけではなかった。
トイレから出た母が言う。「うしろ、なんや痛いねん」
母の紙パンツを少し下げて私はぐがあと声にならない声を出した。「これ!」
「なんかできてるか?」
「ばあちゃん、床ずれできてしもてるわ」
「床ずれ……」
私は母の左臀部に大きく広がる赤斑の端のほうに触れて、痛いかどうか尋ねた。どうやら痛みを感じるのは中央部分だけのようだ。パンツのゴム部分が当たる場所だ。
「ここも、診てもらわなあかんなあ」
私はつぶやきながら、三たびハッピーマンデーを呪いながら、赤斑の中央がずるりと剥けてしまわないことを祈った。そこにもガーゼを貼り、パンツの上げ下げの時に気をつけてねと母に告げて、寝かせた。

10月13日月曜日。振替休日。
母はふつうに起床した。
しかし、前夜に当てておいたガーゼは足もお尻も無残に外れてしまい、血と分泌液でぐっしょりと汚れ、足枕も汚れ、パジャマも汚れ……。いや、汚れは洗濯で落ちるが、この患部はどうすればよいのか。右足ふくらはぎのほおずき大の血豆は見事に破裂し、薄い表皮の向こうに白い皮膚組織が透けて見える。左側のお尻は、赤斑の真ん中あたりの皮が剥け、ヤバさ満開だった。救急を受診するべきなんだろうか。しかし、救急というほどでもない気もする。明日デイを休ませて皮膚科へ行こうか。いや待てよ、先月の頭部の怪我の、再検査日が10月15日だった。受診科は外科だが、お尻と足もこの時に診てもらおう。どうすればいいか、指南してくれるだろう。
ウチには、母の右足拇指の皮膚潰瘍の手当につかった化膿止めの薬がたくさんあった。ひとまずこれをつけておこう。
金曜の発熱時は疲れが原因だと思ったが、これが原因だったかもしれない。土曜日、いったん熱が下がって、再び39度以上の高熱が出た。この高熱は、右足ふくらはぎの腫れや左臀部の床ずれと無関係ではないような気がした。いずれにしろ、いつから発症していたのかはもうわからない。

10月14日火曜日。
母はちっとも起きなかった。8時半、デイサービスの送迎担当者から確認の電話がかかる。「今朝も8時50分のお迎えです」「すみません、今日、休みます。事前連絡できなくてすみません。またちょっと熱があって」
この時点では発熱を確認していなかったが、受話器を置いたあと眠る母の脇に体温計を突っ込んで測ると38度を超えていた。またか……。マズいと思ったが、寝かせておくよりほかにない。家の改修場所では、電気屋さんが電気工事に来ていた。コンセントの位置、エアコンの位置を指示する。
この日母は昼前に起き、遅い朝食を食べ、デイを休んでしまったことを悔やんだ。そない寝てたんか、と呆れたような声で、他人事のように言った。母が起きた時に例の患部二つを見たが、やばい状態がさらに進行しているように見えた。患部そのものが大きくなり、なんつーてもその皮膚の色がこの世のものではないように思えた。
通常、母がデイサービスセンターに通う火曜と金曜に人との約束や役所や銀行などの用事をまとめている。今日も、キャンセルできるものはキャンセルし、行くよりほかないものは、後ろ髪引かれる思いで母を置いて出た。幸い、目下重要な案件だとか急を要する課題など何も抱えていないので、母のことを最優先にして動くことができる。

困ったことがいくつかある。
先月派手な転倒をしたことは書いたが、その後定期検診に訪れた整形外科の主治医が、パーキンソン病の疑いに言及した。パーキンソンといっても、原因不明の難病とされるパーキンソン病そのものである場合、似たような症状の出るパーキンソン症候群である場合などがあり、「はっきり言えへんけど、どちらかである可能性は高いですよ。でもいまはいい治療薬もあるのでそんなに心配しなくていい。早くわかれば対処法はいくつかあります」と医師は言い、まずはMRIを撮ることから始まると続けた。
「前、入院してたね」
「はい、胃潰瘍でT病院、白内障でN病院。頭の怪我でかかっているのはS病院の外科です」
「ああ、S病院の神経内科の先生は、パーキンソン治療で有名な先生ですよ。いま診てもらってるうちに神経内科も予約を入れておくといいですよ」
……といういきさつがあって、10月23日(木)にMRIの予約をしていた。
10月25日(土)は、母の実家の法事だ。母と弟がお参りする予定である。
しかし、母にできた二つの患部からは、いずれもキャンセルに追い込むパワーを感じた。とても、悪い予感がしていた。

10月15日水曜日。
先月の頭部の怪我の最終チェックにS病院へ。再度CTを撮る。異常なし。
医師にお尻とふくらはぎを診てもらった。前後の状況も説明した。
「ああ、典型的な床ずれやね。数時間動かず寝てただけでうっ血するし、お年寄りは床ずれをつくってしまうんや」
しばし考えたのち外科医は、「ちょっとたいへんやけど、毎日消毒してお薬塗って、炎症治まるの待つしかないな。入院したら早いけど、お母さんこれ以上歩けんようになったら困るやろ。入院も良し悪しやねん」と言って大量の塗り薬を処方した。

10月16日木曜日。
いつもは水曜日に通っているリハビリデイサービスを、頭部怪我の検診があるのでという理由で木曜日に振り替えてもらっていた。足とお尻の状態が気になるが、事情を話して、腕や状態の運動だけにしてほしいと告げた。帰宅時、「傷のところ、拝見しました。私見ですけど、ご家庭での手当では限界があるのではないですか」とスタッフが言う。
「皮膚科に見せたほうがいいでしょうか……」
「大きな病院に行かれるとか……」
その夜、手当のために傷口を見たが、よからぬものがばくばくと増殖しているふうであった。ふくらはぎとお尻、それぞれ様態は異なるが、どちらも患部は拡大している。

10月17日金曜日。
かかりつけの皮膚科に連れていこう。と私は決めていたのだが、母は絶対デイに行くと言い張る。事情を話して入浴はなし、右足が腫れているので台に載せるなど足を休ませるようにしてほしいと告げる。センターに詰めている看護師が右足の患部を見てくれたらしい。「これはホーカシキエンだとのことです」(by送迎スタッフ)だそうだ。ホーカシキエン。なんだそれ。
とにかく足はパンパンに腫れたまま、熱も帯びている。母は前夜から四六時中痛いというようになっていた。デイから戻ってすぐ皮膚科医院の夜診へ向かう。
「ああこれは……かなり」
「かなり」
「厳しい状態です」
「厳しい」
「はい、キビシイです」
「キビシイとおっしゃるのは具体的には……」
「ご自宅での手当では追いつかないと思います」
「入院とか」
「のほうが、ですね」
「手術とか」
「場合によっては」
「はあ、そうですか、やはり」
「しかし今日はもう金曜の夜なので、抗生剤をお飲みいただいて、土日は様子を見てください。月曜日、朝一番にお越しください。拝見して、状況によってはすぐに病院を手配します」
15日にS病院の外科でもらったのとはまた異なる塗り薬と、抗生物質の錠剤が処方された。入院したほうがいいみたいよ、と母に告げると、法事行けるやろか、などと言うので、行けるわけないやろ、と返すと、ほなアンタ行ってきてな、などと言う。

いや、法事は弟にひとりで行ってもらおう。パーキンソンの検査はキャンセルだ。うまくいかないときは、何もうまくいかない。

2014年12月29日月曜日

L'état sérieux? (2)

前のエントリーは10月14日火曜日だ。もう2か月半が経ってしまったのか……ここ数日ようやく母も私も現状に慣れて落ち着いてきた気分だ。それにしても、10月10日金曜日に発熱して寝込んで以来、状況は一変したのだった。10月14日に書ききれなかった、母に起きた異変は、15日、16日と悪化の一途をたどった。



10月10日金曜日。デイサービスから帰宅した母は、とにかくすぐにベッドに入ってぐっすり眠った。7〜8時間経った夜の11時頃に一度そっと声をかけてみた。白粥をこしらえたので食べさせようと思った。体温も測りたかった。あまりよく眠っているようだったら無理に起こすのはやめようと思っていたが、意外にすっと目を覚ました。

「ぐっすり寝てたなあ。少し起きられる? お熱測ろか。ほんでご飯少し食べたほうがいいし」
「ん、食べる食べる」
体温を測ると37度台に下がっていた。少し楽になったようだった。おかゆを飯碗一膳分しっかりたいらげて、美味しかったを連発した。私は少し安心した。
このあと母は翌朝までぐっすり眠った。



10月11日土曜日。糖尿病を診てくれているかかりつけ医を受診。この日の朝、体温は37度ちょうどまで下がった。37度前後なら、母の場合あまり心配ない。母自身も安心したのか、朝食を(おかゆだが)しっかり食べ、外出の身支度をした。
主治医は肺炎の恐れがないか、またインフルエンザの検査もしてくれたが、母の体に変わった様子はなく、血糖値も高くはなく、HbA1cとやらも7台で安定値であった。
「疲れがたまって熱出したねえ、前も」
「先生、わたし、家でじっとしてるだけやのに。疲れるようなことしてしまへんのに」
私が横から口をはさみ、しばらく家を工事していて大工の出入りがあったことを説明した。
「通常と違うことがあると、精神的に緊張するしね。そういうことで疲れるんやで」
「そうでっしゃろか」
けっきょく、主治医の見立てでは、今回も発熱についてはさほど心配ないから家で安静にしてなさいということだった。
帰宅して、昼食。気をよくしていた母は、もうおかゆは嫌だという。それでいつものような昼食を準備し、一緒に食べ始めた。
しかし、やはりいつものようには食べ進まない。
「無理に食べんでもええよ。残してもいいし。おかゆに換えよか?」
「食べる食べる。これ、食べる」
だが、皿や飯碗を持っていることができない。母は背中が横にも曲がっているのでまっすぐに座れないのだが、いつもなら傾く身体を自らの力で背もたれに押し当てて座姿勢をキープするところ、やはり体力が落ちているせいかキープできない。椅子からずり落ちそうになるのを何度も押し戻してやる。戻しても戻しても傾くので、押し戻したまま支える。少し落ち着いたか。「大丈夫?」「大丈夫、大丈夫。おおきに」支えていた手を離してお茶を入れるために私は台所に立った。とその瞬間、ドタッ。皿と箸を持ったまま母が椅子から落ちた。ひっくり返った皿から、まだ半分ほどのこっていたおかずが散乱した。
「ああ、ごめん」
「ごめん、はいいけど、その体勢からどうすんのよ」
母の体は椅子から落ちたが、上体だけが右側へ落ちて、左足が椅子に残っているのだ。落ちた場所で、右ひじを床についている。ギャグ漫画の、人物がずっこけるシーンのような、コミカルなポーズだ。しかし笑うに笑えない。ふつうの健康体なら、椅子の上の足も床におろして膝を立ててよいしょと立ち上がればいいだけの話だが、母はその体勢からぴくりとも動くことができない。
床の掃除をしながら、どうしてあげればいいのと私は尋ねた。前日の朝、どうやっても母を起こすことができなかった。今回も無理だ。前日の朝の重労働が響いて、腱鞘炎持ちの私の両腕は痛みで熱くなっていた。非情に聞こえるかもしれないが、いたずらに手を貸して自分の体を壊したくはなかった。
「自分で起き上がってくれんと、困るよ。椅子につかまる? 手押し車のほうがいい?」
母の手押し車を寄せてきて、椅子の上に乗ったままの母の足を「これ、下ろしたほうがいいよね」と言いながら下ろした。母は右膝を曲げることができないが、伸びたままの右膝をリードするほど左足にも力がない。椅子につかまり、冷蔵庫にもたれながら、上体を起こし床に座る姿勢までこぎつけた。もちろん、腰を上げることはできない。椅子にすがってもみるし、手押し車を固定してつかまってみるが、とにかく身体が重すぎる。
ある程度まで上がれば、私の体に母が体を預けるかたちにできるので、そうするとよいしょと全体を持ち上げられる。しかしまったくの地べたから上げるのは負荷が重すぎる、私にとって。食器をすべて流しに移し、食卓を拭きあげて、私は溜め息をついた。ダイニングチェアが2脚、母を包囲するように配置され、そこに割り込むように愛用の手押し車がスタンバイしていた。なのに母は動けない。私が食器を洗っているあいだ、母は疲れきって冷蔵庫にもたれたままだった。また熱が上がるんじゃないかな……。

少し休んでまた力が湧いてきたのか、再び母は椅子にしがみつこうともがき、なんとか左膝を立てるところまでたどり着いた。「そのまま思い切り前に傾いて。前のめりになってみて、椅子にかぶさるように」私の言葉にしたがった母の、お尻の位置が少し上がった。
そこでようやく腰を上げることができ、私の手助けできる段階が訪れた。立てた左膝を維持するため、力なくへにゃっとすぐ伸びてしまう左足を固定する。なんとか上がった腰。それにくっついた棒のような右の脚を、足が床を踏めるところまで誘導する。それにともない左の膝も伸びて、ようやく両足を地に着けて立てた。
母の表情は困憊していた。もうへとへと。それは私もだったけれど。
「休んだほうがいいと思うよ。ベッドに横になり」
「そやなあ」
「明日、運動会やし」
「うん、観に行きたいしなあ」
そう、翌日の10月12日土曜日は、地域の学区体育祭なのだ。私もいくつかの種目に出場することになっていたので、母は観戦を楽しみにしていた。会場の模擬店で、うどんやお菓子を食べるのも大きな楽しみのひとつだった。
ようやく寝室へたどり着く。着替える。布団に入る。それから間もなくして大きないびきをかき始めた。
発熱は体力を奪うが、高齢者の場合はそれが甚だしい。転倒して起き上がるだけでも、体の不自由な高齢者にとっては非日常的な一大イベントというか一大重労働だ。母の場合、これまで幾度となく転倒を繰り返しており、自分でも起き上がるコツを心得てはきたが、実際衰えのスピードが激しく、こうすればコケても起きられるはず、という母なりの方法が母にも理解できないまま、もう使えなくなっている。

窓の外が暗くなった頃、母の様子を見に寝室を覗く。ごーごーいびきをかいている。体に触ると異常に熱かった。やば。再び熱が高くなっているようだ。明日出かけるなんてもってのほかやわ……つーか、ばあちゃん置いて私運動会行けるやろか……とひとりモゴモゴつぶやきながら、母のいびきを聞いていた。
夜中、もう一度覗くと母が目を開いた。
「熱が高くなってるみたいやで」
「そうか? かなんわあ」
「ちょっと測らせて」
39度を超えていた。よく寝てね。それだけ言って私は母の寝室をあとにした。日・月と連休が恨めしかった。まったくどこかのバカどもたちが決めたハッピーマンデーなんぞ、何もいいことはもたらさない。心の中で舌打ちをしつつ、でもなんのかの言っても私は明日走らなくちゃならないしなあと憂鬱な気持ちで、私も床についた。