2014年4月19日土曜日

"J'ai souvent cuisiné du bamboo, moi."

朝掘り筍を買い求め、お吸い物にしたり蒸し焼きにしたりして、美味しくいただいている。

商店街の馴染みの八百屋で、これは少し固め、これは柔らかめ、食べる人のお好みなんやけどね、と指し示される。母の咀嚼力を考えて柔らかめがいいかなというと、「うーん、でもね、筍って歯応えで楽しむもんでもあるやん」。母を、そして母の好みもよく知る八百屋夫婦は「固めといっても朝掘りやし、よそで売ってるのより柔らかいから大丈夫」と、しっかり締まった筍をすすめてくれた。

値が張るが、さすがに新鮮なゆえの美味しさは格別だ。いろいろに調理して、旬を味わう喜びにひたっている。

このように素材がよいと、若干料理が下手でも問題にならないから助かる。たいした手を加えなくても済むのは、段取り下手で技術もない私のような人間には大きな味方。味覚の鈍くなった母には何を食べさせても、美味しいと言うのだが、たとえば先日友達のレストランに行った時のように、心底美味しいと思った時は口をついて出る言葉が違うのだ。レストランと張り合うつもりはないのだけれども(笑)、ウチでも、この筍のように、旬の新鮮な素材でシンプルに仕上げると、美味しい〜としみじみ言ってくれる。おそらく、今がその季節なのだ、と歳時記を確かめることで、かつての食事、かつての調理の記憶が甦り、今摂っている食事に重なって味わいが幾重にも増幅するのだろう。
母はほぼ毎日商店街へ出向き、八百屋、魚屋、肉屋とさんざんおしゃべりして食材を買ってきた。その時季のいちばん美味しいものを、馴染み客だからと少しおまけしてもらって買ったことを少し自慢げに話しながら、料理した。お世辞にも料理上手だったとはいえない母だが、自分の母親、兄嫁、そして姑から教わった、いわゆる昔からあるものは考えることなくいつもつくった。今この時期の筍もそうで、八百屋が自前で持っている竹薮から朝掘ってくる筍は当然高いが、午前中に必ず買いに行く母にはいつもサービスしてくれて、だから母はシーズン中何度も筍を買い、私たち家族は来る日も来る日も(笑)若竹煮と筍の澄ましと筍ご飯と木の芽和えをいただいた。

大鍋にたっぷり水を入れ、八百屋がつけてくれた米ぬか袋を入れて、筍を茹でる。
煮立ったら弱火にする。早くも筍の薫りが家中に満ちる。
「ええ匂いしてきたわあ」
「よう筍、炊いたなあ私も」
「お父さんが好きやったわあ、筍」
食べ物の話をすると、必ず「お父さんが好きやったわあ」というフレーズが出る。父はなんでも好きだったな、そういえば。

今の私は高価な筍をそう何度も買えないけれども、あと一度、買おうかな。という気になっている。去年もおととしも、一度ずつしか買えなかったが、それはどちらかというと時間の問題だった。時間のある今は予算が不足しているが、なに、ほかの何かを切り詰めよう(笑)。

2014年4月16日水曜日

"C'est très bon."

母と、友達の店で食事をした。

食べることが大好きな母は、「家族で外食」をことのほか喜ぶ人だ。父の染色業に専従していた母は朝から晩まで父の指示で仕事を手伝い、その合間に家事をした。近所の商店街へ食材を買いに出かけるのがほとんど唯一の外出だった。町内のレクレーションでご近所の奥さんたちと出かけたり、父の兄弟あるいは自分の兄弟姉妹との食事会などが企画されると出かけることができたが、父の兄弟たちはたいていはウチへ来た。盆と正月はあらかじめ来るとわかっているので準備できるが、それ以外にも、突然来訪することひんぱんだった。叔父がふらりとひとりで来るというパターンもなくはなかったが、たいていは家族で出かけていてその帰りに「ちょっと寄ったんやー」といっていきなり押しかける。「もう食事は済んでるから要らんよ」とは口ばかりで、酒やつまみを出さないわけにはいかないから出すとあっという間に平らげる。私や弟は従兄弟が来るのは嬉しくてよく遊んだが、たったひとりでいきなり来た客をもてなす母の心中いかばかりであったろうか。

夫婦で出かけることも、ほとんどなかった。仕事を終えたあと外へ飲みに出かけるのは亭主ばかりで、母はいつも夜中まで待っていた。父は、家族を連れて出かけようという発想はあまりしない人だった。

私たち子どもが大人になって稼ぐようになり、父と母をともなって出かけるといったことをできるようになって、ようやく母は「家族で外食」を楽しめるようになったのだった。とはいえ、私たち子どもはあっという間に多忙になり、貴重な余暇を何が嬉しくて偏屈な親父と主体性のないお袋を連れての外出に費やさなくちゃならんのだと考えるようになる。

私も弟も人の親となって、今度こそようやく、親子孫の三世代での「家族で外食」が、我が家の定例となりつつあった。それは安い回転寿司だったり、ファミレスだったりしたが、父も母も私たちと一緒にいるだけで幸せそうであった。

私たちの子、つまり母にとっての孫がもう18歳だ。「家族で」なんて、中高生になると頼まれても嫌だと思うようになる。それでも私の娘の場合、片親のせいもあるのだろうが、祖父・祖母・母・自分という4人で、祖父亡きあとは残りの3人で、出かけることにこだわった。年老いて出かけることを億劫がる祖父母の尻を叩いて無理やり連れ出したこともある。私と二人で出かけるのでは物足りないと感じる娘のためだった。しかし、母は座敷には座れなくなり、椅子席でも高さによっては立ち座りができないので、店という場所で食事をするのを遠ざけるようになった。美味しいと評判の新しい店、近いし歩いて(母は車に乗るのも容易ではない)行こうよ、といっても出たがらない。二人で行っといで、という。

今ではふつうに歩くのも困難なので、「歩いて行ける近所の店」も不可能だ。

友達の店はタクシーに乗ると1500円くらいの場所にある。あまり流行っていないので(失礼)、ほかの客の目を気にすることもない。糖尿病だけど、一年に一度くらいちゃんとしたレストランでご飯食べたっていいじゃないか、ということで連れ出すことにした。
友達の店は、欧風料理を謳う店だ。カジュアルフレンチ、かな。

「えらいなあ、こんな立派なお店もって」
「いえいえ、ぜんぜん立派とちごて」
「お店やって、お父さんとお母さんの面倒見たはんの、えらいなあ」
「いえ、面倒見てもらってんの、私のほうなんです。儲かってへんし人を雇えへんし」
「それでええにゃ、体動かさなあかんえ。動かし続けてたらな、ちょっと悪なっても治るねん。動いてへんかったらな、悪なっててもわからへんし、気がついた時はもう遅いねん」
「そうですねえ、ウチの両親にももっと店で働いてもらいますわ」(笑)

友達の両親は母より年上だが、背筋はしゃんと伸びて足取りもたしかだ。お父さんは仕入れを手伝い、お母さんはホールを手伝っている。記憶がやや覚束ないことがあるようだが、お母さんが注文を間違ったことはまだないという。
「よう叱られますねん」
「しょうがおへんなあ、叱られてるうちが花かもしれまへん」

友達の店は町外れにあり、長年の贔屓客だけでなんとか保っているといってもいい。何度も経営の危機に陥りその度に畳むことは考えたというが、友達と両親の人柄か、客がやめさせないのだそうだ。

「おいしいわあ。ものすご、おいしいわあ」
母は何度もそう言って、少しずつ、むせないように注意深く、箸を口に運んでいた。


2014年4月13日日曜日

"Il faut faire de l'exercice, oui."

今月の初め、数か所のリハビリデイサービス施設を見学した。
なかなか興味深い体験だった。
介護保険施設にもかかわらず、来ている高齢者の元気なこと(笑)。アンタたちほんまに要介護老人なのか? いや、たいした運動をしているわけではない。ただ、みなさん、表情が明るく、生き生きしておられるので、ことさらお元気に見えるわけだ。
母がとても、みすぼらしく見える。
高性能なマシンが並び、おじいさんおばあさんたちが思い思いにゆるゆるとトレーニングするさまは、スポーツジムとは明らかに異なるけれども、現在母が通うデイサービスセンターの雰囲気にはない「活気」がたしかにある。
マシンを利用する高齢者は、要介護老人のはずなのに、なんとなくスポーツマンの凛々しさを表情に湛える。
「お試し体験」でマシンに座らせてもらう母。言われるままに手足を動かす母。
これほどエクササイズマシンの似合わない図があるだろうかと思うほど、母の様子は、この空間に場違いであった。


母は、ちょうど一年前に胃潰瘍のためひと月入院した。
胃潰瘍だから、入院したのではなかった。いきなり食欲が減退し、食べようとしても食べられない。そんな状態が続いた。
それよりさかのぼること1週間くらい、転倒して鎖骨を骨折していたのだが、そのこととの関連はなさそうであった。咀嚼ができなくなったのかと思い、おかずをすべてポタージュ状にしたり、 飲み物にとろみ剤を入れて飲み込みやすくしたり、手を尽くしたが、ひと口、ふた口くらいでもう受けつけない。母は「なんでかわからへんけど、食べられへん」というばかりで、痛みや苦しさをまったく訴えない。
当時、私は朝食は一緒に摂ったが、昼・夜の食事は準備してつくっておき、温めればいいだけにして出勤していた。
午後の途中で、娘が学校からいったん帰宅し、洗濯物を取り込み、母が食べたかどうかを見てくれる。
「おばあちゃん、何も食べたはらへん」とメールが来る。
非常に心配される状態だったが、母につきっきりでいるわけにいかなかった。
仕事はいつものサイクルで繁忙のピーク。さらに、娘がバレエ発表会の本番直前であった。衣装のサイズ調整やシューズの滑り止め、舞台小道具の制作など、連日針仕事にも追われていた。さらには楽屋番として差し入れの買い出しまで。
なにより、母は孫の舞台をことのほか楽しみにしていた。今主治医に見せると「即入院」と言われそうな予感がして、発表会が終わるまで頑張ってくれの内心祈りながら、母の口元にポタージュを運んだ。

舞台が終わり、翌日すぐに糖尿病をみてくれている主治医を受診したら、消化器系の医院に紹介され、エコーで胃腸を診察。だが異常は見つからない。
翌日も、翌々日も食欲は戻らず、目に見えてやせ細ってきた。仕事で動けないので、弟嫁に頼んで主治医に診せた。栄養失調。すぐに点滴された。体重も激減。ただし、血糖値はすこぶるよかった。食べてないから当然だが、皮肉なもの。
すぐにベッドの空きを検索してもらい、家から近くの総合病院で受け入れてもらうことになった。とにかく原因不明の食欲減退による栄養失調ということで、連日、一日中点滴をした。
並行して、いくつもの精密検査が行われた。胃カメラを二度飲んで、ようやく潰瘍が見つかった。


結果的に胃潰瘍で、しかも重篤ではなかったが、この結論を導き出すのに、約ひと月ものあいだ母はほとんど運動らしきことをせず、ベッドの上で過ごす日々を送った。上げ膳据え膳、簡易トイレもベッド脇にセットしてもらい、移動は車椅子。
この病院でのひと月ですっかり筋力が衰えてしまった。
ほんとうに、それでなくても衰えていた母の筋力は、この悪夢のひと月で徹底的に弱ってしまったのだった。

退院して帰宅した母は、自分の「歩けなさ」に驚き、戸惑った。杖を使えばすんなりと移動していたのに、杖をどうついても、足がついてこない。足を思う場所へ引き寄せることができないのだ。
以前から、立ち座りに難があったが、自力では腰が上がらなくなった。ダイニングに居る時は、テーブルにしがみついてようやく立つ。ベッドからは、そばにある家具をつかみ、ベッドサイドをつかみ、そのほかあらゆるものにつかまって立つ。
前からしょっちゅう転倒していたが、より頻繁になった。

6月からデイサービスに通うことになったが、入院騒ぎがなかったら4月から通所予定で進めていたことだった。ただし、当初は「昼間たいしたことをせずに家に居るより出かけたほうがいいから」という理由だった。介護度「要支援2」の母は、たいていのことを自分でできる人、と認定されていた。……はずなのだが、入院のせいで歩行とそれにまつわる動作が極端に困難になり、受け入れる施設側スタッフにも戸惑いの色が見えた。その人にどの程度手を取られるか、は受け入れ側にとって大きな問題だ。

介護度の認定をやり直すことも検討したが、私の都合で土日しか来てもらえないので日程調整にまず非常に苦労する。認定されたらされたで「会議」を開催せねばならずその日程調整。最初の認定で振り回された記憶がまだ新しくて(それはケアマネも同様だったと思う)、ちょっとげんなりしていた。そんなこんなしているうちに更新時期が来る……と思って変更申請はしなかった(これについてはたいへん後悔した)。そして、デイサービスセンターには、「要支援」のままで母をほぼ「介護」していただくこととなった。

デイへ通所する日々にも慣れ、孫の不在にも慣れ、動かない体にも慣れ、母は起伏のない日々をそれなりに暮らしているが、弱った筋力はますます弱まる一方で、家庭内ですら「できること」が減っていく。できることが減ると動くことがますます減る。
母自身もこれではいかんと、天気のいい日は散歩に出たりする。
しかし外へ出ると甘いお菓子を売る店がわんさかある(笑)のでつい買い込み、厳禁されているのにたらふく食べてしまい、血糖値がまた上がって主治医に叱られる(笑)。

もうひとつ、歩くことは糖尿病フットケアの医師から禁じられている。
神経障害を起こしているせいで胃潰瘍の痛みにも無感覚だったのだが、退院直後、足を引きずってしか歩けなくなっていて、そのせいで足に大きな靴擦れをつくった。それが悪化し、手当を尽くしても、もう10か月、治癒しないのだ。靴擦れは皮膚潰瘍となり、膿んでは緩解、膿んでは緩解を繰り返している。足から出血していても気づかず、まったく痛いと感じないまま、ばい菌が入ってしまったのだった。フットケアドクターによると、高齢や糖尿による回復力の低下もあるが、歩いてできた傷だから歩くことが最も治癒を妨げる。早く治すには歩かないことがいちばんだ。あるいは、傷口に圧力がかからないような特殊な矯正靴をオーダーし、四六時中それを履く。
非現実的。


ダイニングテーブルの上に置いたポータブルプレイヤーに高齢者体操のDVDをかけ、椅子に座ったままでもできる体操レッスンを観ながら、えっちらおっちら、見よう見まねで手足を動かす。そんなことも日課に加わった。歩くのが御法度なら、歩かずに運動すべし。
しかし、当然のことながら、こんなことでは筋力低下に歯止めはかからない。
先月初め、路上で転倒した。止まってくれたタクシーに乗ろうと、近寄りかけてバランスを崩したのだ。
その数日後、今度は家の中でバランスを崩したらしい。本人もうろ覚えでもはや想像するしかないが、転倒した時に冷蔵庫か何かの角でしこたま額を打ったらしい。ジャイアンに殴られたのび太だってこんなひどくはないよというくらい、大きな黒い輪っかが目のまわりにできてしまった(まだ消えない)。


派手な転倒を繰り返して命取りになってしまう前にできることがあるはずだ。「なんとかしてください」と訴えた。母が要介護状態になるのを防ぐために「介護予防」の名目で「要支援2」がつけられたはずだ。「介護予防」のためにケアしてくれるんなら、予防してもらわなくてはならない、なんとしても。筋力アップのためのリハビリを受けられるように手を打ってくれ。「要支援2」の認定が行く手を阻むなら、あらゆる手を使って介護度が上がるように計らってくれ。月イチで訪問したり電話したりして母の様子を窺っているケアマネも、事態は外から見るより深刻だと気づいてくれたようだ。

京都は高齢者の割合が非常に高いので、たとえば特養ホームの「待機高齢者」の数がすごいのだ。「待機児童」の比ではない。冗談みたいな、ほんとの話。リハビリデイサービス施設も同様で、キャンセル待ちではある。しかし、母は、何か所かお試し体験をして、運動すればもっとよくなれるかもしれないという手応えを感じたらしい。
「運動しな、あかんな。ああいうとこへ行ったら、できるな」
日常生活で「できる範囲」のことだけするのとは大きく異なるということを実感したようだ。
リハビリに通える日が、待ち遠しいな、母ちゃん。

2014年4月9日水曜日

"C'étaient tellement beaux, les cerisiers"

久しぶりに会った知人は、大きなマスクを着けていた。
「すみません、ご無沙汰ばかりの上にこんな顔で」
「いえ、そんな。花粉症ですか」
「風邪を引きまして。ここ数日の急な冷え込みで、すっかり」
「寒かったですねえ、ほんとに」
「こういう気温の乱高下にカラダがついていきません。歳とりましたよ」

先週末から今週始めのほんの3、4日だったが、花冷えというにはあまりにも冷酷な寒さに見舞われた。その前の数日は日中の気温が24度に達するなどすっかり春だったので、我が家では暖房器具をすっかり片づけた。すると、空は晴れているけれど風が冷たく強く、夕方になるとしんしんと冷気が下へ降りてきて、フローリングの床が冷たい冷たい……。

母の部屋の床暖房の、設定温度を再び上げた。
京都の家は、夏の暑気を和らげる構造になっているので、冬はとことん寒く、こうした季節の変わり目に、順序を裏切るかたちで冷え込みが来たりすると寒いことこの上ない。
寒いなあ、寒いなあと母が言う。
「せっかく冬のもん片づけたけど、また出して、着てんねん」
なかなか衣替えもうまくいかない(笑)。
しかしあと2、3週もすれば「夏」になる。
暑くなってから慌てて夏支度はたいへんなので、今から少しずつ家を夏仕様に替えていく。

知人のオフィスをあとにし、まちなかを自転車で走る。
真昼。平日のこんな時間に繁華街を走るのは何年ぶりだろうか。
あっちの角を曲がり、こっちの道を突き抜けて……と目的なく縦横に走る。
そこここに、満開の桜が見える。まったく、桜はそこいらじゅうにあり、今が盛りと開いている。

デイサービスセンターでは、昼食後のレクレーションの時間に外出させてくれることもある。先週、気温が上がった時に母たちのグループは岡崎公園のほうへ連れていってもらったらしい。入場料の要るところには入れないので、お金を使わなくてもよく、車を停められて、車椅子でも通行できて、となると、こんなにいたるところに桜が咲いてても、意外と見に行けるところは少ないのだと、スタッフが言っていたそうだ。
まったく、そうだな。美しいところは神社仏閣に集中している京都は、石畳や石段だらけで、まこと足下の不安定な人間には優しくないのだ。

「桜、きれいやったわあ。満開やったわあ」
その日帰宅した母はほんとうに幸せそうであった。
そろそろ、桜も散り始める頃である。


2014年4月7日月曜日

Il y a les jours comme ça.

母は糖尿病を患っている。深刻な合併症などは出ていないが、食事を工夫しても血糖値が高いままで、主治医はいつも渋い顔である。趣味もなく、歩くのに難がある今となっては、ただ出された食事を食べるだけが楽しみの母である。私は料理が得意なわけではないので、そんなにいろいろあれもこれもできない。でも、娘が高校に入って陸上競技をやめた時から、カロリー制限ダイエットや糖質制限ダイエットを試み、あれもダメこれもダメお母さんこういう食事にしてよ、などとうるさかったので、つまりヘルシーな食事には何を控えればよいのか、おおざっぱな知識は私にもついたので、それを応用すればいいのである。ま、娘の場合、ダンサブルなボディになるためだからどんなストイックな状況にも耐えられたが、母は、食べられなくなるくらいなら糖尿病なんか治らんでもええ、と考えるタイプなので(笑)、あまりショボイつまらない食事にならないようには、しなくてはならない。主治医からキツく言われている「おやつ厳禁」も、時には解除している(解除日が多すぎる気もしなくはないが)。

今日、ホームベーカリーでパンを1斤焼いたんだが、材料を入れる時にうっかり砂糖の計量を間違えた。いつもは砂糖を入れないのだけど、膨らみにくいライ麦粉をたくさん入れるので、ちょっとだけ砂糖を入れとこうと思い、パンケースを前に砂糖ケースを持って、その瞬間だけ何か別の考えごとをしていたのであろうか、ぱさっ、と砂糖を入れたらスケールの数字が15gを示した。「しまった」
砂糖を使う場合でも、てん菜糖やきび砂糖は10gが最大、白砂糖やオリゴ糖は5gを超えないように加える。なのに15g。先に水を入れてあるので瞬く間に融けてしまった。

「ま、いいや」

パンの主原料である小麦粉そのものが炭水化物=糖質であるので、これ以上糖分を加えるべからずってとこなんだけど、パンってさ、砂糖の力で膨らむんだよね。

「しゃあないやん」

ま、いいや、しゃあないやん、なんて事態は、実はしょっちゅうある。
出来合いの調味料やだしの素、スープの素の類いには、必ずと言っていいほど塩分と糖分が含まれている。だからほとんど使わない。あるけど、「非常用」ということにしている。でもけっこう「非常事態」は訪れる。
時間がなかったり、材料を切らしているのに気づいたのが夜遅かったり。
そんな「しゃあない」非常事態に、ブイヨンキューブだけでスープをつくるとか、野菜炒めの味つけが顆粒の昆布茶だったりとか。
また、うまいんだよね。
でも、糖尿病患者さんには御法度だ。

だけど、そんな日もある。そんな日々も、しょっちゅうある。

2014年4月6日日曜日

"Je n'y vais pas s'il pleut"

今日は投票日だった。投票所は近所の自治会館で、わたしがふつうに歩いて行けば5分もかからないところだ。午後から出かける用事があったので、朝食を済ませたらゆるゆると出かけようと、母と約束していた。しかし、夜半から降り出した雨が、朝になっても止まなかった。

「雨降ってたら、行かへんえ」
「またそんな。選挙は行かなあかんで。どしゃ降りにはならへんよ、今日は。すぐ近くやし、行こうよ」
「雨降ってたら、行かへん」

台所を片づけて耳を澄ますと、いつのまにか雨音は止んでいた。
おもてへ出てみると、陽が射している。

「晴れたよ」
「ほな、行こ」

母は身支度をし、手押し車を押して上がり框のところまで来て腰掛け、靴下をはきなおし、靴を履き、上着を羽織って、上がり框に腰を滑らせて、外出用の手押し車のところまで行こうとした矢先、再び強い雨が降ってきた。わたしなら投票所と家を3往復できるくらいの時間、晴れていたんだけど、残念である。

「雨降ってるし、行かへん」
「すぐ止むよ。いまもそんなにきつい雨とちゃうよ」
「もう行かへん。ひとがせっかく靴履いてんのに、殺生な。行かへん」

そう言って、せっかく履いた靴を脱ぎ、上着も脱いで、室内に戻ろうとする母。

「ほな、あたし、行ってくるよ。すぐ帰るしな」
「傘さして行きや」

そら、傘さすってば(笑)。しかし、そう思いながら傘を手におもてへ出ると今度は止んで青空がのぞいていた。

「止んだよ! もうお日さん出てるよ。行かへんの」
「行かへん。また降るかもしれんやろ、歩いてる間に」
「傘持って行くやん」
「雨降ったら行かへん」
「今降ってへんって。止んだって」
「そやけど、さっき降ってた。せっかく人が行こうとしてんのに。もうええのん。雨降ったら行かへんにゃ」

お隣のおばちゃんも声かけてくれたけど、けっきょく母は行かなかった。
今日は一日強い風が吹き、春とは名ばかりの寒い日だった。晴れ間が見えていたとしても強風でポカポカお散歩気分にはなれない。母の気持ちもわかる。手押し車で両手がふさがるので自分で傘を差せないし、わたしが母に傘をさしかけるわけだが、どうしても半身濡れてしまう。それが、たぶん嫌なのだ。

投票結果は予想どおりでまず順当。

「私が行かんでも、おんなじこっちゃ」

ほら、だから、そういう人ばかりだから、あんな大阪市長とかあんな大阪府知事とか、あんな東京都知事とか、あんなソーリ大臣とかになっちまうわけさ。






2014年4月3日木曜日

"J'ai mangé du poisson."

「今日のぉ、お昼はぁ、何を食べましたかぁ? 覚えていますかぁ?」
介護保険制度のサービスを申請すると、調査員が家庭訪問をし、サービスを受けるにふさわしいかどうかを調べる。身体機能をはじめ本人の状態を知るために、おびただしい数の細かい質問を投げかける。対象は高齢者で、調査員より何十年も多く生きている人々だが、調査員は一様に、まるで幼児に話しかけるように優しく優しく優しく語尾をのばした粘度の高い口調で、首を傾げて語りかける。
「おさかな」
ぼそっと、母が言う。
「はい、おさかなぁ」
「おつけもの」
「はあい、お漬け物ねぇ」
「にもの」
「はあい、煮物ですねぇ。何の煮物でしたかぁ?」
「……」
「はあい、いいですよぉ、また思い出しといてくださいねぇ」

父が亡くなって9年が経った。つまり、父が要介護度2とまず認定されたのは10年前になるのだな。父の介護申請をし、初めてこういう世界に足を踏み入れたとき、人間とはなんと面倒な生き物なのだろうとつくづく思った。年をとると子どもに返るというが、それはその老人を子ども扱いすべしということではない。だが、しかし、先述したように、幼児に語りかけるようにゆっくりと、平易な言葉で優しくいわなければ、やはり高齢者たちは何を言われているのかわからないのだ。自分の親がまるで聞き分けのない3歳児のように扱われているのを見て激怒する人もいるというが、気持ちはとてもわかる。わかるが、本人たちを70年80年90年と生きてきた人生の先輩として尊ぶからこそ、どのようなことであれ本人の意思を第一に大切にしたい。なにがなんでも本人の気持ちを引き出し、その意思に沿った介助をしたい。けっきょく、そうして、理解を早めるための手段としての幼児言葉なのだ。

調査員、ケアマネ、介護用品の販売員、施設のスタッフ。介護の現場で働く福祉士のみなさんの苦労は想像を超えているだろうが、それよりも、どうにも解消できない違和感が立ちはだかり、ああほんとに世話になってるなあ、彼らを労いたいわ……という気持ちが萎えていく。